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1398日目 - 愛と慈しみ(2)

「1397日目 - 愛と慈しみ(1)」の続き。


大きなエネルギーに包まれた空間にいれば・・・
そのエネルギーを十二分に体験すれば・・・
やがて、その感覚が身につくでしょう。
愛や慈しみのエネルギーと同調すれば、自分のなかに愛や慈しみのエネルギーが満ちます。

それを周りに振りまくことも可能でしょう。
もっとも、愛や慈しみは意識的に振りまくものではありませんが。
そういうものは、自然にあふれ出すものですね。
自分では気づかずに、周りの人が気づくものです。

それは、自分のエネルギーではありません。
自分を通して流れるものです。
それらのエネルギーは、個を超えています。
むしろ、全体と言った方がいいようなエネルギーです。

もしそういうエネルギーを周りに発したかったら、できるだけそういうエネルギーと一緒にいることですね。
愛や慈しみのエネルギーと共にあれば、自然にそういうものが流れ出すようになります。
そういうエネルギーと同調するということは、自分自身もそういうエネルギー状態になるということです。
そうすると、自分のなかの通路が開くのですね。

愛や慈しみのエネルギーが流れる通路が広くなるのですよ。
自然に自分から流れ出すようになるのですね。
もっとも、個を通して流れる時は、多少色づけされますが。
こだわりや囚われが多いと、かなり歪んでしまいます。

できるだけスーッと通るといいのですが・・・
それには、素直であることですね。
常にスーッとした意識状態であることです。
そうすれば、愛や慈しみのエネルギーが、そのまま流れるでしょう。

人の意識のなかには、どうしても凝り固まっているものがあります。
信念や信条、先入観や偏見、信仰や価値観。
観念が、山のように詰まっています。
それだけではなく、心の傷もあります。

過去の記憶というフィルターを通って出てくる時、愛や慈しみのエネルギーは、かなり色づいています。
無条件ではなくなっているのです。
条件付きの愛や慈しみになっています。
頭のなかは、障害物がいっぱいです。

頭のなかが整理され、スッキリするにつれて、愛や慈しみのエネルギーがそのまま流れるようになります。
特定の人だけにではなく、誰にでも何にでも流れ出します。
必要とされるところに引き寄せられる感じでしょうか。
自然に流れるだけです。

その人を通して流れ出すのですね。
その人が、愛や慈しみのエネルギーを出すのではありません。
自我で出せるものではありません。
自然に流れ出すものです。

愛や慈しみの通路になれるほど、頭のなかを整理整頓することですね。
自我というよけいな蓄積物を取り除くことですよ。
自我とは、あちこちにぶつかる塊(かたまり)のようなものです。
角(かど)だらけですね。

こだわりや囚われ、執着や妄念・・・
観念やトラウマ、恨みや憎しみ・・・
プライドや自信、劣等感や優越感・・・
所有欲に支配欲、権力欲に金銭欲・・・

保身のために、ありとあらゆるものが詰まっています。
自己保存ベースは、非常に根強いものがあります。
そういうなかを愛や慈しみが通るのは、限りなく難しいことです。
凝り固まったものに跳ね返されてしまいます。

自我とは、凝り固まった意識です。
肉体をベースにした自己保存の体系です。
自己中心的な意識と、愛や慈しみは対極にあります。
全体と末端という感じでしょうか。

その末端が、小さく小さく凝り固まってしまったのですね。
まるでフリーズしたかのように。
個として、硬く固まっているのです。
それが、自我というものです。

小さなエネルギー場が、全体と離れてフリーズしたのです。
完全に断絶状態です。
だから、自我は孤独です。
潜在的に、常に恐怖と共にあります。

全体から孤立している自我にとって、真のやすらぎは遠い夢です。
だから、神や仏を求めるのです。
孤独に耐えかねて。
あるいは、真のやすらぎを求めて・・・

自我の意識の一番奥にあるのは、やはり純粋な光です。
無色透明な光が、芯にはあります。
それが、何層も何層も、いろんな色に染まっているのですね。
その挙句、一番外側は、ほとんど真っ黒でしょうか。

そんなところを、どうして愛や慈しみが通れるでしょう。
透き通った意識でないと、愛や慈しみは通れないのですよ。
スーッと素直な意識でないと・・・
塊のない、しなやかな意識でないと・・・

記憶は、ある意味、塊です。
フリーズ状態とも言えます。
ですから、記憶と一体化していると、固ーい人間になってしまいます。
記憶から離れている必要があるのですね。

記憶から離れると・・・
実は・・・
本当は・・・
私って何?

記憶喪失の人は、アイデンティティをなくしています。
自分が何者かわからなくなります。
私は誰?状態になるのです。
記憶こそが、自我のバックボーンです。

自己イメージという記憶=思い込みと一緒に生きているのが、自我人間です。
自分は、何々と思い込んでいるのですね。
実際は、心身共に刻々に変化しているのですが。
フリーズした自己イメージと共に生きているのですよ。

それは、過去の記憶と自己同一化した姿です。
フリーズした過去をアイデンティティとして生きているのが、自我人間です。
そして、その自己イメージであるアイデンティティこそが、何よりも大事なのです。
プライドを傷つけられたとか・・・

記憶と少し距離をおき、純粋な意識として生きることでしょうか。
自我人間とは、記憶と一体化した意識です。
意識が無色透明ではなく、色濃く色づいています。
もちろん、無色透明だけでは色の世界は存在できません。

いろんな色があっていいのですが、その色そのものになってしまわないことですね。
その色を楽しむことですよ。
楽しむということは、その色そのものではないということです。
色以前である必要があります。

無色透明な純粋な意識が、いろんな色をまとって楽しむのです。
それは、肉体をまとってこの世を生きるのと似ています。
肉体は、自分自身ではありません。
肉体は、それを通して何かを表現する媒体です。

記憶と自己同一化している自我は、媒体そのものになってしまっています。
肉体の存続そのものが、目的化しています。
生きて存在することも大切ですが、それ以上に大切なことがあるのではないでしょうか。
それは、創造することです。

肉体が凝り固まると、自由に動けません。
頭が凝り固まると、しなやかに表現できません。
宇宙創造が、小さな自我創造に委縮してしまいます。
それも創造には違いないのですが・・・

凝り固まった頭をなんとかしましょう。
解きほぐしましょう。
緩めましょう。
しなやかにしましょう。

自我とは、塊。
全体から分離した、小さな意識。
自己イメージにフォーカスした意識。
自己イメージをベースに生きる意識です。

その自己イメージの中身は、記憶の断片の集合体。
過去の諸々の塊です。
自我とは、記憶と心中した意識でもあります。
過去にフリーズした意識です。

純粋な意識というものは、無色透明です。
完全にフリーです。
何ものとも自己同一化していません。
ですから、名無しのゴンベェーです。

それは逆に言うと、固定化していないということでもあります。
一定の形がないのですね。
あるようでないのです。
まるで空です。

ただ意識場があるだけです。
エネルギー場。
器ですね。
肉体を始めとする、何層もの器・・・

その何層もの器のなかに、純粋な無色透明の意識が浸透しています。
器には、肉体のように個性があります。
しかし、意識は、あくまで無色透明です。
器とは、別のものです。

時に応じ、何かと一体化して現実創造をします。
時に応じ、どこかの器にフォーカスして自己表現をします。
無色透明の意識は、旅人のようなものですね。
それぞれの次元で、器を通して現実創造をしているのです。

しかし、この三次元では、どういう訳か器そのものになっています。
本来の純粋な意識を忘却しています。
肉体や自我になりきっているのです。
そのため、意識の自由をなくしています。

少し記憶から離れて、静かにしていた方がいいかもしれませんね。
そうすれば、媒体や器を超えた意識が現れるでしょう。
純粋な透き通るような意識が・・・
その時に、愛や慈しみも一緒にやって来るかもしれません。

過去の塊と共に生きる時、自分自身も固まってしまいます。
愛や慈しみからは遠く離れ、心のやすらぎは期待できません。
それらは、すべて思い込みの産物です。
思いが、凝り固まったものに過ぎません。

そういうものと自己同一化して生きれば、苦しい人生となります。
それは、硬くなって物質化した意識です。
本来の意識のしなやかさを取り戻さないと、苦しいだけの人生になってしまいます。
風に揺れるススキのような、しなやかな意識で生きないと・・・

何もない。
でも、すべてがある。
自分のものは、何もない。
でも、すべてが眼前で展開している。


『あちこちに ぶつかりながら 生きるのが 自我のこだわり 自我の囚われ』

『塊(かたまり)が 自我というもの こだわりが 自我というもの サラサラ生きる』

『色づいた 個として生きる 人の世は 色々あるさ 色んなことが』

『色だけに なりきる時に 苦しみが 狭い視野から 押し寄せてくる』

『手放して 生きれば楽に 生きられる 握っているから 疲れ苦しむ』

『透明な 意識のなかを 様々な 色とりどりの 色が流れる』

『純粋な 意識になって 様々な 色の展開 楽しみ愛でる』

『人はみな 十二単(じゅうにひとえ)を 身にまとい 歌って踊る 神楽のように』


これが日記を書き始めて1398日目の心境です。




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コメント

Re:1398日目 - 愛と慈しみ(2)

響きました。。 
でも、早くそんな意識でありたいと、焦っている自分がいます。。
 
そんな自分も見守りたいと思います 
ありがとうございます 

通路

>人の意識のなかには、どうしても凝り固まっているものがあります。
>信念や信条、先入観や偏見、信仰や価値観。

自分で探せたらいいのに、と思います。
日常のひょんなことから偶然に知ること以外、なかなか出会えません。

そして出会うときには「ゲ・・こんなのもあったのか。」と感じ、
その下、特に何も無い地面のように思っていたものが実は、
偏見、思い込みが無数に固まって出来た巨大さんご礁みたいに思えます。

時々眩暈がするような、途方も無い気持ちになります。

焦ってるのですね(^^;)知らないことを何を予想し思い込んでるんだか。


通路になることなのですね。そこには「私」はもういないんだ・・・。
私だったら周囲に光を流せるとしたら、
「私ってスゴイ」「私から光が出てるのよ~見て見て♪」
となってしまいます。目に見えます。喜ぶ自分が。

けど本当に、どこかの全体から来る愛、慈愛を流せる時には、
そんな「私」などいない。
流れてることにもきっと気付かない。
むしろ必要な人が勝手に受け取っている状態なんですね?

私、家族にだけはそういう光を流せたらなと思います。
でも光は対象も選ばない^^;
よくて流れても色付きの光。かなり弱いのでしょうか。

がちがちに蓋がしてて、おまけに表面真っ黒だから、
生きてる間に大事な人孝行は難しいかもしれないですね・・・。

せめて記憶喪失になれたら・・・。
そう思う側から、「あの人との」「この人との」絆、思い出を消したくない!と思う自我がしっかり牽制しに来ます。

でも、今日の日記は読むだけでなんだか、希望の音がしました。

こんばんは

色つきですよね。本当に。
ある特定に向けて、自分で操作している。
それに気づかないときさえある。
真っ暗だとそうですね。

相手が強制的で、脅し口調だったりする人と最近出会うのですが、顔つきや攻撃パワーで、
恐ろしくなり、固まってしまう。
強くでよう、仕返しが怖いから、おとなしくしてよう、
おお、いろいろと、頭はガチっとめぐる、自己保身全開ですね。

自分や他人や出来事をあげたり、さげたりする操作は本当に、その労力が限りなく疲れます。
まっすぐに見れないのですね。

私は自分で作った恐怖で固まっている。
冷静に冷静に振り返る。
思い込み・・・。私の中にあるのですね。本当です。
それが現れてきただけな感じですね。
根深いですね。本当に暗くって、じっとりんこ。
なかなか、クリアせず、本当に何ミリずつ溶かしているような感じでしょうか。
相当クリアにならないとですね。
気づき続けたいですね。
すぐ真っ暗になりますから。

慈しみ
ただ流れるだけ、溢れるだけ

地道に気長にやっていきます☆
どんどん軽くなりましょう。
どんどん、抜けていきましょう。
自身で作り上げられた輪郭は、本当にもう浮き上がっている気がします。

慈しみの中で花咲く個性を輝かせていきましょう♪・・・と。
自由な創造、慈しみの花を咲かせたいですね。
創造の旅。
目の前で展開する全てを包み在りながら。

まだまだ固まりだらけの中いろいろひっかかっていますね。
角だらけ。まあるくいきたいですね。

すてきなメールと日記をアップしてくださってありがとうございました^-^

今日の日記に感謝。

今日、劣等感がムクムクと頭をもたげてきました。

もう大掃除をしたと思っていたのに・・・
悪玉コレステロールのように、
個意識の壁にびっしりと、
自我の塊がこびりついていた・・・。

まさに、
>記憶は、ある意味、塊です。
>フリーズ状態とも言えます。
>ですから、記憶と一体化していると、固ーい人間になってしまいます。
>記憶から離れている必要があるのですね

最近、今までの職場の人間関係のことを思ったり、話したりしていた・・・
危険信号でしたね。

そういうガチガチの心が、
孤独と恐怖で私を包み込み、
劣等感という鎧兜で身構えさせたのですね。

記憶から離れる・・・
記憶が何故いけないか、なかなか理解できませんでした。

劣等感・・・これも過程だったのでしょうか。
今日の日記から大きな気付きを受け取るための・・・。

今、今を生きる。
事実と共にいる。

たとえ有能でない私であったとしても精一杯。
精一杯の結果を判断しない。
なるようになる。

流れに、精一杯を浮かべて、
心は愛と慈しみの通り道とするために、
記憶は解き放とう・・・。

私の思い違いでなければ・・・
確かに今日の日記から、
愛と慈しみのパワーが届いています。

今、私は心にあふれんばかりのあたたかさに包まれています。

今日の日記に、
kimiさんに感謝です。

きれいな短歌ですね。

『色だけに なりきる時に 苦しみが 狭い視野から 押し寄せてくる』

そうそう、本当にそうですね。
意識が狭くなると、本当にこんな感じ♪
自己同一化している状態に気づかず、つかみまくっているとき☆

『人はみな 十二単(じゅうにひとえ)を 身にまとい 歌って踊る 神楽のように』

いいですねぇ。
すてきな舞は踊れないのは、どうも、思い込みで、いろんなまとうものを、活かしきれていないからでしょうねえ。
いいですね。

まるで、意識の美しい動きと流れが見えるようです♪
うーーん、宇宙の波長とリズムのよう。
すてきな短歌だなぁ。

明日、しっかりその方と向かい合おう。
どんなことにも向かい合うって決めたんだっけ。
すぐ言い訳つけて逃げちゃうし(笑)
おやすみなさい。

Re:1398日目 - 愛と慈しみ(2)

今朝また読み返しました 
保身しているたくさんの自分自身をありのままに感じたら 
涙が溢れる感じでした 
保身している自分も誤魔化さずに見守ってあげようと思います 
ありがとうございます 

自分のものは、何もない。。。。

あははは。。(自嘲)
もともと そうでした。 いいですね。。。

すべて 「拝借させていただいたもの(または お預かりしたもの)」を、楽しんでいただくカタチで「お返し」することで、自分にしぜんに流れこんでくる歩(ぶ)が、私の「お楽しみ」ですね。。。

・・あれ? 私だけ ちょっと違うところにひっかかってます?(笑)

素直

常にスーッとした意識状態であること、素直であること。
・・・この言葉で、全然スーッとしていないし、素直ではない自分に遭遇
してしまいました。
素直、って、私の中には見当たらないかもしれない。(悲)

ものすごいメッセージというか、究極の内容を届けてくださっているのに、
読むのに精一杯で、コメント言葉が出てきません。

もちろん、日記の言葉の上ではとてもよく理解できていて、
感動しているのですが。

何度も何度も読んでいるのですが、その度意識がぼんやりしてきて
頭の中がぐるぐるしてきます・・・(なぜかしら・・・)

でもそんな中で、すーっと光が一本通り、自分の中に光のラインが
できるのですが、その光を全体に行き渡らせることができないというか、
人事みたいにその光を眺めているというか、今は、ちょっと、・・・そんな感覚です。

整理整頓が追いついていないのかな。
今はただただ、受け止めています。

何度も読んでいるうちに、そのうちエネルギーが満ちてくると思います。
ありがとうございました。


ヘンなコメントでしたね。
内的な感覚なので、わかりにくいですね。
ごめんなさい。(>_<)

Re:1398日目 - 愛と慈しみ(2)(10/30)

大きなエネルギーに包まれた空間にいてそれを十二分に体験すればその感覚が身につく・・・正にそれを体験しました。
別に大した出来事があったわけではなく、昔から多分そこに在ったことです。
ただ気付いただけのようです。
この世に起こることは全て神様のギフトだと言いますが、大きなエネルギーが見えた(気付いた)時、自分自身がそれと同化している事に気付きました。
あ、ギフトは私自身で在ればいいんだ、と。
「あるがまま」とはそういうことだったんですね。

何だか分かりませんが、異常な勢いを感じます。
「出る」と「来る」が一緒になっている感じです。
恐れが無くなって来ているのが分かります。
人は、素晴らしいんですね、生命は素晴らしいです。
どこに居ても何をしていても、何も関係ありませんね。
やっと知りました。

こんばんは

怒り、というものが既にわかないところで、いつもガチっと繰り返している
出来事に向かい合いました。
いつもなら、ガチガチに怒ってる。
怒って当たり前。絶対怒って当たり前。
絶対当たり前!これは当たり前!・・・といつも思っていて、
実際、体もフルフルしての怒りに後は内臓がしめつけられるようだった。

でも、冷静で静かな、そういう意識の中に、相手と出来事と自分をわけるものはないんですね。

相手と出来事と自分の分離がないのです。
そう、いつも相手側の出来事、私側の出来事、
思い込みにより事実が歪曲していたのですね。

見る・・・思考や浮き上がってくるものを見るという感覚さえなかったように思います。
思考は完全に静かで、動きということも感じない。
よくわからないけれど、全てが一致している感じなのでしょうか。
なんとなく、じっくり体感しました。

こんばんは

相手のことや、出来事を分析するレベルまで落ちないというか・・。
今までは、経験や知識、心理学から相手は
相手はこういう状態だろうと、頭で考えてどうしても対応をしていました。
それをなんとか見守るという感じ。

やっぱり全て所有だったんだ・・・。
自分が作り出していたんですね。

本当に、これでは、戦いが生まれようがないと感じました。
分裂がないのですから。
世界はまったく変わってしまう。
私が使っていた思考も行動も、あまりにも過去だ。

私自身、自分の過去や体に刻むものはとても超えられない、よくそう感じます。
恐怖と破滅で震えていることの方が一日の中では長いですし
すっきりしていることもあまり経験がないですけれど、
そんなのもどんなのも見守りながら、
丁寧に過ごしていくことを絶え間なく。。
そう向かおう姿勢をギリギリだけれどしています。

あとは実感が薄いからよくわからないから。

でも、そんな状態は無理が生まれないです。
いろいろ反応はあるけれど、その状態の中では、なんとなくですが、
安らぎの中にくるまれているようです。
ベースが、反応と違うところを少し感じている気がします。

そして、よくとらわれだけになるのですが、
そのときは一気にまっしぐらに暗だけに進んでしまいます。危機でいっぱい。

そんな感じを繰り返していますが、今回は人との交流の機会で違う気がしました。
所有・・・所有こそが、分離、宇宙とは逆方向のエネルギーを生み出しますね。
慈しみをさえぎるものですね。

手放すことをおっしゃっていることが少し実感として感じてきました。

よくわからないけれど、いつも、やはりその意識はあり続ける?っていうと
変かなあ、
私、気づいてないだけなのかな、と実感しました。

メールと日記のおかげですね。この体感にもとらわれないで、またゆっくりといきます。

自我

読むたびに、うんうん って心の奥が深く深く頷いています。
ほんとうに、そうですよねえ・・・
何度読んでも、一言一言が、ぐいぐい入ってきます。

自分の曇りや煤や汚れを、きちんと確認して理解することは、
とても大切ですね。
うやむやにしていないで、はっきりと見ることをしないといつまでも
前には進めない ということを、新たに深い心で感じました。 

>そんなところを、どうして愛や慈しみが通れるでしょう。

ほんと、どうして通れるでしょう ですよね。
私のなかにある 光、愛、慈しみ、・・・出てこられなくてかわいそう。
出してあげたい。
すごーく出してあげたいです。

>記憶と少し距離をおき、純粋な意識として生きることでしょうか。
>少し記憶から離れて、静かにしていた方がいいかもしれませんね。

記憶から離れること、この日記以来、これまで以上に頭においてみています。
でも、記憶は根強くて、根強くて、どうしても記憶に負けてしまいます。
(記憶と戦ってもしかたないのですが・・・)

煤だらけの顕在意識、記憶でいっぱいの自我の心では
どうにもしようがないです。
自分の醜さにほとほと閉口してしまうのも、記憶で判断して
自我で裁いてしまうからなのでしょうね。

続きです

「大きなエネルギーに包まれた空間にいること 愛と慈しみの
エネルギーを十二分に体験すること」
これが、瞑想中は難なくできて、至福という言葉すらも超えた絶対の
愛のエネルギーの中に溶けることができるのに、こちらに戻ってくると、
その意識状態と顕在意識とのギャップが大きすぎて激しすぎて、なまじ至福を
体験するがあまりに、またそれが囚われとなり執着となり・・・
そんなことの繰り返しをしている感も、無きにしも非ず です。

いつまでたっても堂々巡りをしているような感じです。
kimiさんが、これまでも繰り返し繰り返し言ってこられたこと、
その度、これまでに何度も何度も私自身、噛み締めてきたこと・・・
そんなことを何年やっているのか、・・・私という自我は強固すぎて、
もう、悲しくなってしまいます。

特別、瞑想に入らなくてもそのような意識状態を今この肉体のある器で
感じられたらいいですが、私の場合、とてもそれは無理のようです。
囚われ、執着、記憶、それらが、どこから解いたらいいのかわからない
毛糸の絡みのように、絡まりきっています。
整理整頓以前の問題です。

瞑想で、そのようなエネルギー状態と同調できるのであれば、瞑想で感じて
いられたら、今はそれでもいいでしょうか。
そのうちに、そのエネルギー状態が、ここに降ろせるようになるのでしょうか。
この器に浸透してくるでしょうか。

Re:続きです(10/30)

私は瞑想を、至福の存在と繋がる為のものとは思っていません。
思考は悪のように思われるけど、自分自身が考えていることに何の罪があるでしょうか。
瞑想は、自分との対話で良いと思っています。
その内に、感謝する気持ちが芽生えて、今どんなに幸せなのかを自覚することができます。
あるがままで幸せだと気付くことは、この世で生きてゆく上で天国を見ることだと信じています。

スピリチュアルは、至福の存在と繋がることが目的でなく、自分を許し癒し愛することができるようになる術だと感じます。
その結果が、自分の中にハイヤーセルフを見つけ、一緒に生きてゆくようになるのではないかと思います。

私達は、宝物なんです。
親の、神様の、宝物だと、今は思えます。

Re[1]:続きです(10/30)

日の出さん

すみません。
件名が、私のコメントのレスという感じで投稿されいてますので、
日の出さんのコメントが、日の出さんのご意見のコメント、そして私へのご意見も
含まれているのかしら? と思い、このコメントに返信させていただきますね。
( 違っていたら、ごめんなさいね)

この機会に、私の瞑想に対する姿勢も、合わせて書かせていただきます。

>私は瞑想を、至福の存在と繋がる為のものとは思っていません。

私も、「瞑想を至福の存在と繋がる為のもの」 とは、つゆほども思っていません。

瞑想・・・
私は、ただ、自分自身を感じ、そして見守ります。
ただ自分自身と一緒にいて、無になります。
あとは、その時々のエネルギーにすべて、お任せしてゆだねます。

そうすると、その時々で、必要なものを受け取り、必要なところに繋がります。
表面意識と、深い意識が繋がることによって、今の私に一番必要なものが
出てきて、ビジョンとして見えたり、そのエネルギーと同調します。

それらは、私の深い意識を目覚めさせるものです。
そして私の場合、結果的に至福の次元に行くのです。

というよりも、深い意識の次元は、至福、愛一元の世界ですので、
思考が静まり、深い意識に繋がると、もう、至福 なのです。
言葉で表現しにくいのですが・・・

「至福の存在と繋がる」 のではなく、私自身が至福、愛一元なのです。
瞑想していると、そこに、繋がるのです。

そこには、『私』 ← → 『何かの存在』 という対象どうしはないのです。
至福の存在と繋がる というのは、まだ、分離の世界です。
そうではなく、それはもう、そのもの、 『ひとつ』 なのです。
ですので、瞑想が 「至福の存在と繋がる為のもの」 というのは、全く違います。
私の場合ですが。

またまた続いちゃいます

そしてそれは、期待して、自我で繋がれるものではないのです。
「至福の存在と繋がる為」 という目的で瞑想をするなら、自我の瞑想です。
(でも、世には、そういう瞑想もたくさんあります)
(そして私は、それを否定するものではありません)
私は、自我を満足させるための瞑想は、しません。


ただ、水晶とつながりたければ、水晶に意識を沿わせます。
石の持つエネルギーと対話するには、この顕在意識では能力に限りがあります。
深い深い叡智を秘めたものに繋がるには、こちらも、その叡智に繋がる深い深い意識に
繋がることが必要です。
そのためには、私の場合、今のところ、瞑想が一番繋がりやすいものです。


>思考は悪のように思われるけど、自分自身が考えていることに何の罪があるでしょうか。

思考は、悪のように思われているのでしょうか・・・?
この世に、悪はあるのでしょうか。
私は、善悪はないと思っています。
罪もないと思っています。

上の三行は、この世的な意識で解釈して読まれると、当然反発されそうな文ですが、
深い深いところのことを言っています。道徳的な次元のことではなくて・・・

kimiさんは、思考が悪だとか、自分が考えていることに罪があるとか、
そんなことを言われたことがないことは、kimiさんの文章を熟読されていたら、
わかりますね・・・
そして、私も、そのように思っています。

長くてすみません。(>_<)

>瞑想は、自分との対話で良いと思っています。
>その内に、感謝する気持ちが芽生えて、今どんなに幸せなのかを自覚することができます。
>あるがままで幸せだと気付くことは、この世で生きてゆく上で天国を見ることだと信じています。

>スピリチュアルは、至福の存在と繋がることが目的でなく、自分を許し癒し愛することができるようになる術だと感じます。
>その結果が、自分の中にハイヤーセルフを見つけ、一緒に生きてゆくようになるのではないかと思います。

>私達は、宝物なんです。
>親の、神様の、宝物だと、今は思えます。

おっしゃるとおりだと思っています。
でも私のスタンスは、何も信じてはいません ですが・・・

生意気なようですが、ひとつ付け加えさせていただきます。
私は、既出の、出回ったスピリチュアル、三次元のスピリチュアルを超えたところ、
もっとはるか向こうを見ているつもりです。
私の場合、ハイアーセルフを見つけるとか、そういうことはもう目的ではありません。

内的なことなので、わかりにくいコメントをいつも書いていますが、一連のコメントも、
自分との対話だと思って、ここに書かせていただいています。
書くことによって自分の想いを整理しようと、ここに書かせていただいていることが多いです。

いつでしたか、日の出さんが、日々の生活の中で気付いたことをここで確認している
というようなことを書かれていました。
似たようなものでしょうか・・・

ごめんなさいね。
なんだか、日の出さんの文章にいちいち反発しているようなコメントになってしまいましたね・・・
お気を悪くされたら、心から謝ります。<(_ _)>

そんなつもりは、全くありません。
ただ、私の想うところを述べさせていただきました。

日の出さんと深い語らいができましたこと、心から感謝いたします。

ありがとうございました~。(伏、謝)

手放したいけど・・・

>『手放して 生きれば楽に 生きられる 握っているから 疲れ苦しむ』

まだ劣等感の日々です。

事実を見れば、
判断せざるを得ない。
評価を受けざるを得ない・・・。

気が利かない。
愚図だ。
要領が悪い。
段取りが悪い。
得意なものがない・・・
私が頑張っていると思うことにさえ、
好意的評価もない。
ポイントがずれているのか・・・

私自身はそんな自分も認めてあげたい。

けれど、私は雇われの身。
判断され、評価される身の上。

相性というものもあるだろうけれど、
否定的な空気の中で、
私は事実の上に、更に思い込みを背負って、
どんどん自滅していく。

泥沼にひとり打ち沈んでいく・・・。
泥沼から顔を出そうと、
どうもがいてみても・・・
私がそんな自分自身を認めてあげようとしても・・・
周りはそんな私を認めていない。

私は、自滅していく悪循環の渦のただなかにいる。
そういう自分を見守りつつも、
救ってあげる事は出来ずにいる。

逃げ出すか?
自分に鞭打つか?

コッテ牛の鈍重な私がお門違いの角を前に突き出し、
闇雲に周りの否定からわが身を守ろうとする・・・

無力な鎧兜のドンキホーテの滑稽さを、
涙しながら見守っているしかない・・・

この泥沼から這い出る方法すら見えないうえに、
愛や、慈しみの通り道には程遠い、
劣等感でパンパンに詰まりきった私の心の整理整頓も手付かずのまま・・・・

日記から届けられる愛や慈しみのエネルギーが、
私の傍をすり抜けて行くような気がします。

ただ、こんなコメントでも、書かせていただけた分、
詰まりきった心に、
小さな自分への癒しの風を吹き込めるような隙間が出来たように思います。

ありがとうございます。



Re:手放したいけど・・・(10/30)

えっちゃんさん

えっちゃんは、人にはない素敵なところがい~~っぱいあって、
たくさん、たくさん、いいところがあって、とっても魅力的な人なのに、
そんなえっちゃんの輝きを、えっちゃんという人を、認めてくれない人達が
いるのですね・・・
なんだか、悲しくなってきました。
判断され、評価される身の上っていうのは、つらいですね。

私は、えっちゃんを、心の底から認めています。
そして、えっちゃんが大大大好きです。
えっちゃんのいいところがわからない人達なんて、プンプンです。

えっちゃん、持ち前のバイタリティーで、泥沼から這い上がってください。
そして、泥沼でもがいた分、いつか、きれいなきれいな蓮の花を咲かせてください。
えっちゃんは、それができる人です!

えっちゃん、頑張って☆

Re:長くてすみません。(>_<)(10/30)

ぴあの@サファイアさん
私はとても素晴らしいことに気付きました。
人は人の歩いた道でなく、自分自身の道を歩むのだと。
自分を救うのは自分だということを、私はつい忘れて人にお節介をやいてしまいます。
許してください。

でも今回の事で、私はkimiさんと同じことをしたかったんだと気付きました。
でも同じ方法では無いということも分かりました。
自分に合った生き方で、生きていこうと思います。
いろんな気付きを頂きました、ありがとうございました☆

ありがとう。

ぴあのさんの励ましで、
自分を見つめる勇気をいただきました。

しっかり見つめていると、
色んな発見がありますね。

本当にありがとう。

瞑想って。。?

瞑想って。。未だに良く解らない。。
前にも説明してくださったのですよね。。

瞑想しようと思うと。。頭が重たいな~とか
肩が張ってコリコリだ~。。とか。。

なんででしょう。。?
いつも心がザワザワしてて。。イライラしているような。。
なんか。。病んでますよね~。。

肉体から。。なかなか離れられないのか~。。
もう一度読もう。。っと。

すみません。。独りごとです。。

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光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

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