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1409日目 - いじめ(1)

かなり以前に、次のようなコメントがありました。

「>今、今、今です。
 >今、始めることですね。
 >今、生き直すことですよ。
 >今、切り換えることです。

でも、『よしっ!』と決意したそのすぐそばからネガティブパターンが顔を出しました。
顔を出すというよりフラッシュバックという感じでしょうか。
その一つにいじめられたという記憶があります。

その記憶とともに、どうしてあの時すぐに仕返しできなかったのかという後悔やら相手に対する憎悪やら、今できる復讐の方法は何かとかいった妄念やらがどっと湧いてきます。
はい、これこそ過去に振り回されてるネガティブパターンです。
わかってます(ただし理屈の上でだけ)。

でも、暴力を受けた場合でも、事実ベースで言えば傷ついたのは肉体だけということなのでしょうか。
悔しいとか相手が憎いというのは実体のない自己イメージが傷ついたに過ぎないということなのでしょうか。
過去を『手放す』と言われても、なんだか『見て見ぬふり』をしているような感じもします。
過去を清算するには、やはり復讐、仕返しをするしかない?
(さすがにそうではないと感じてはいるのですが。。。)

『自分の傷を直視』せず『傷の中身を理解』しないで過去を手放そうとしているから、まさに『見て見ぬふり』となるのでしょうか。
犯罪被害に遭われた方や虐待を受けた方でも前向きに生きていらっしゃる方は大勢いらっしゃると思います。
自分の受けた暴力など事実ベースではたわいのないものです(大けがでもなければ後遺症とかもありません)。
暴力を受けた『記憶』を後生大事に持ち続けるのは愚かしいと理解しているのですが、フラッシュバックするということはまだまだ表面的な理解に過ぎず、その愚かさを見極めきれていないのでしょうね。」


仕返し、憎悪、復讐、悔しい、憎い・・・
まるでサスペンスドラマのような言葉が並んでいますね。
今もテレビや映画では、サスペンスが大流行(はや)りです。
人は、サスペンスが好きなのでしょうか。

人は、なぜ仕返しや復讐をしたがるのでしょう。
人は、なぜ悔しいとか憎いとか思うのでしょうか。
そういうことを正面から検討することは、あまりありません。
すべて当たり前のこととして過ごしています。

しかし、よく考えてみると、どうして悔しいのか、なぜ憎くなるのか・・・
ほとんどオートマチックにそうなっているだけです。
自動的にそのように反応しているのですね。
そして、それを疑問に思うことすらありません。

悔しいとは、どういうことでしょうか。
普通は、自分の望むようにならないと、悔しいという感情になります。
欲しかったものが、他の人に買われてしまったとか。
一番になるつもりが、ビリになってしまったとか。

いじめの場合は、どうでしょうか。
本当は大事に扱ってほしかったのでしょうか。
そんなに冷たく扱ってほしくなかったのでしょうか。
無視されたり、存在を否定されて悔しいということでしょうか。

本当は・・・
本当は、存在を認めてほしかったのですね。
大切に扱ってほしかったのです。
にもかかわらず、存在を否定されてしまったということでしょうか。

では、憎しみは、どうでしょうか。
どんな時に憎しみの感情が沸いてくるでしょうか。
いろんなケースで憎しみの感情は沸いてきそうですが・・・
基本的には、やはり自分が認められなかった時でしょうか。

憎しみの根底にあるのは、自分の存在が無視されたり否定されたということでしょうか。
ところが・・・
これは事実ベースではありません。
実際に無視されたり否定されたりしてなくても、自分がそう思えば憎しみの感情は沸いてきます。

感情は、思い込みベースです。
事実と関わりなく、そのように思いさえすれば感情は沸いてきます。
思うことが、感情を沸き立たせるのです。
自分が無視されたり否定されたと思う時、悔しいとか憎いとかの感情が沸いてきます。

それは、やはり自分を認めてほしいからでしょうか。
それが自分の安全に繋がるからでしょうか。
元を辿れば、やはり自己保存の本能に行き着くのでしょうか。
自分の存在が無視されたり否定されることは、自己の生存にとっては脅威です。

認めてもらう方が、居心地がいいのですね。
安全であり安心です。
自分の存在が否定される時、悔しさや憎しみが沸いてきます。
そして、仕返しや復讐となっていきます。

しかし、いくら仕返しや復讐をしても・・・
自分の存在を認めてもらえるわけではありません。
逆に、更に否定の思いを強めてしまいます。
逆効果以外の何ものでもありません。

にもかかわらず、仕返しや復讐をしたがります。
それで自分の気が済むのでしょうか。
スッキリする?
実際は、淋しくなるだけなのですが・・・

認めてほしい。
自分の存在を肯定してほしい。
それは、とても根強いものがあります。
ほとんど本能と言ってもいいぐらいです。

それを否定される時、悔しさや憎しみ、怒りや恨みなどの感情が沸いてきます。
その根底にあるのは、自己の存在を肯定してほしいという願いです。
それは、愛の渇望とも言えます。
愛とは、全肯定ですから。

ところが、実は、いじめをした方も愛に飢えているのです。
愛が満たされない気持ちを、いじめによって発散しているのかもしれません。
それは、両親や周りにいる人たちの愛の欠如です。
子供たちに十分な愛が行き届いていないのです。

自己肯定が十分でないので、いじめをするのでしょうか。
いじめることによって、相手から認められたいのでしょうか。
自分を真に認めている相手には、いじめはしないでしょう。
潜在的に否定している相手に対して、いじめをするのではないでしょうか。

いじめる方も、いじめられる方も、認められたいというのが根底にあるのではないでしょうか。
自己の存在を認めてほしいのですね。
自己肯定を求めているのです。
それが認められない時に、いじめや憎しみが生まれるのではないでしょうか。

過去の忌まわしい記憶を手放すには、やはり理解することでしょう。
自分を理解し、相手を理解する。
自他の状況を共に理解する。
それが、記憶からの自由に繋がります。

悔しさや憎しみという感情は、子供の頃にたくさん体験します。
ところが、大人になっても、その感情を持ち続けている人のなんと多いことでしょう。
ほとんどの人が、子供時代と変わりません。
ただ子供のように表面に出さないだけです。

人は、大人になっても基本的には子供時代と変わりません。
感情や思考が理解されない限り、子供時代のままです。
見かけだけが大きくなった子供です。
根本的には、何も変わっていません。

忌まわしい記憶のフラッシュパックがあるというのは、解放のプロセスとも言えます。
そうやって、心の傷は自然に回復していきます。
それは、体の傷と同じです。
ただ体と違うのは、出て来た時に痛みが伴うことです。

それを嫌がって、更に記憶を強化するという悪循環にはまってしまう人もいます。
いやだ、いやだ、いやだ・・・・
それは、嫌な記憶を更に強化してしまいます。
嫌なことの中身の理解がない限り、嫌なものから解放されることはありません。

自分を認めてほしいということは、自分を愛してほしいということです。
それは、幼児にとっては切実です。
愛されなければ、存在することができません。
自己の存在を認めてもらえなければ、生きていくことができないのです。

愛されたい。
それは、自然なことです。
その愛を満たしてあげるのは、親の役割です。
その愛が十分に行き届いていれば、いじめる子はいないでしょう。

自己の存在を十分に認めてもらえなかった心の傷が、自分を認めていない子へ向かいます。
それは、いじめられる方の悔しさや憎しみと同質のものではないでしょうか。
あるいは、大切にされている子を見ると、妬みが沸いてきたりもします。
本当は、自分もあのように大切にされたかったのです。



「1410日目 - いじめ(2)」に続く


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Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

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