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1423日目 - テクニック

「思い込みを手放すテクニックがあるのですが、役に立つでしょうか」
という質問があった。
思い込みや自我を解放する方法は、いろいろ提示されている。
長く続いているものは、それなりの効果もあるのだろう。

しかし・・・
思い込みや自我をなんとかしたいと思っている主体については、あまり考慮されていない。
テクニックを実行することによって、楽になることに主眼が置かれている。
それは、それでいいのだが・・・

しかし、しかしである。
いくら方法やテクニックを実行しても、それをやっている主体を問い直すことがなければ、本質的な解決には至らない。
なぜなら、それをやろうとしている主体こそ、自我に他ならないのだから。
そこに広がっているのは、自我が自我を克服しようとする世界。

自我が自我を克服する?
そういうことがあり得るのだろうか。
自我が克服された時、残っているものは?
克服しようとした自我ではないのだろうか。

自我で自我を克服しようとする限り、このパラドックスが存在し続ける。
逆に言うと、克服しようとすればするほど、克服しようとする自我は強くなる。
張りきれば張りきるほど、自我のパワーは増強する。
自我を克服するぞと張り切ることそのものが、自我を強化してしまう。

それは、自分の尻尾を追いかけまわす犬に似ている。
追えば追うほど、尻尾は逃げていく。
追うスピードを速くすれば、尻尾が逃げるスピードも速くなる。
どこまで行ってもキリがない。

最初は自我でもいいではないか、という声もある。
確かにそうかもしれない。
自我しか知らないのだから。
しかし、自我でやりながら、自我を克服できるだろうか。

これが、自我が自我を克服しようとする時に陥る絶対矛盾。
要は、自我では自我を克服できないということ。
いくら頑張っても、頑張っている主体そのものが自我に他ならない。
自我は、頑張ることをやめるしかない。

自我が自我を克服しようと頑張る限り、自我は存在し続ける。
なんとも厄介なことではある。
自我は、ただ静まるしかない。
理解を通して・・・

テクニックというのは、効果がある。
しかし、その効果は、限定的なもの。
ベターという程度。
以前と比べれば相対的によくなるだけ。

テクニックでは、絶対へは行けない。
テクニックをやれば、テクニックで止まる。
テクニック以上には行けない。
テクニックに縛られてしまう。

精神をテクニックで縛れば、完全な自由は更に遠くなる。
テクニックを熱心にやればやるほど、テクニックの虜となる。
テクニックは、人を不自由にする。
結局、ミイラ取りが、ミイラになってしまう。

テクニックや技法やメソッドというものは、方便。
相対の世界にあるもの。
自我や色の世界のもの。
それでは、絶対へは行けない。

絶対に方便はない。
絶対に方法はない。
すべての方便が放棄された時、自然に成就される。
完全自由に至る方法はない。

ただ理解すること。
理解して、即、実行すること。
理解と実行の間に方法を介在させないこと。
方法論とは、自我の隠れ蓑。

変化したくない自我は、「では、どうすれば変われるのか」と問う。
しかし、方法を模索し始めると、方法に埋没する。
その方法をうまくやるための別の方法が必要になる。
方法は、次々とそのための方法を求める。

それは、自我のゴマカシ。
自我の延命策以外の何ものでもない。
方法=テクニックというものは、自我の領域にあるもの。
方法やテクニックをやっている限り、自我の領域からの自由はない。

完全な自由は、方法論を持たない。
理解して実行する。
ただそれだけ。
極めてシンプル。

どうやって実行する?
実行するためにはどうしたらいい?
そういうことを言っている限り、真の変化はない。
それは、自我の逃げ口上。

理解即実行。
ただそれだけ。
それが、唯一、人を真実に導く道。
方法論はいらない。

自分を深く見つめて理解する。
その連続。
その連続の先に、別の世界が広がる。
広がることを期待しないで、ただ理解する。

広がることを期待して理解しようとすれば、ギブ&テイクの世界に陥る。
それこそは、まさに自我の世界。
理解まで方法や手段にされてしまう。
何も期待しないでやるしかない。

一切期待しない。
何も求めない。
ただ自分を理解する。
自分が条件づけられていることに気づき、それを理解する。

不自由さに気づき、不自由さを理解する。
理解されれば、それまで。
不自由でなくなる。
そうなればどうなる?

それは、自我の期待。
何も期待しない。
ただ淡々と理解あるのみ。
理解の後に広がるものは、自然にやって来る。

それは、自然に実感される。
期待するものではない。
期待すれば、期待したものしかやって来ない。
無限のものは、やって来れなくなる。

期待するのは、自我。
期待すればするほど、自我が強まっていく。
一切の期待なく、ただ淡々と理解あるのみ。
理解の先に無限が広がっている。


『自我が自我 克服しようと 努力する 努力する度 自我が強まる』

『自我が自我 克服せんと する時に 葛藤という 苦しみが沸く』

『自我減らす ために行う 方法は 自我を温存 するだけのこと』

『理解して 即座に実行 それだけが 自我を超えゆく 唯一の道』

『期待して 努力するのは 自我のうち ギブアンドテイク 自我の満足』

『自分観て 理解しながら 生きていく 結果は後から 付いてくるもの』

『理解する 先に広がる 空間は 計り知れない 無限の彼方』

『道示す 星は理解の 光だけ 理解の先に 愛が広がる』


これが日記を書き始めて1423日目の心境。

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コメント

自我

心の葛藤や重みから抜け出たいというのは、万人にあることでしょうね。
苦しみから抜け出たい一心からや、また、苦難や困難な人生を経験していると、
まるで導かれるようにしてスピリチュアルな世界へ誘(いざな)われるということ、
ここに集われる方々なら、誰しも経験のあることだと思います。
かく言う私も、そうです。

スピリチュアルを知り始めると、まるで魔法が解けたように、これまでの謎が
ほどけていくような気がして、これが真理、そうだったのか と、光を得たように思い、
そこに依存してしまうことが往々にしてあるように思います。

でも、それがいけないのではなく、まさにそこは入り口とも思えます。
これだ と思ったはずのものが、そこでまた矛盾や葛藤がおき、悩まされる。
そこで、さらなる内なるところへ意識が向かう。

でも・・・、kimiさんのようなことを言っていらっしゃる方は、そうそうはいません。
自我を超えるということ。
確かに言われている方もお見受けいたしますが、何か、違うのです。
何が?
う~んと・・・、それは申しません。
(もちろん、そうではない方もいらっしゃるでしょう)
(まだ、私がkimiさん以外、そういう方に出会えていないだけですが)

私は、ほぼ四年前でしたか、HPの掲示板で、
「完全な自由を手に入れるためにアセンションしたい」
と言ったことがありました。
その時、kimiさんは、
「おしいね。完全な自由でないと、完全な自由は手に入らないんだよ」
と、おっしゃいました。

続きです

その時、私の意識の内にある私が到達したい自由は、”制限つきの自由のイメージ”
であったことに気づきました。
いえ、気づきました という静かな感じではなくて、落雷が落ちて、雷に打たれた
くらいのインパクトがありました。

一瞬で、私の意識の中が、眩い光でスパークしたような、そんな感覚だったでしょうか。
自我の内と自我の外との大いなる広がりの違い、限定と無限定の気の遠くなるほどの違い。

その言葉は、私には言い知れないエネルギーを伴っていて、何か、私を肉体から
解き放つ仕掛けのスイッチのようでした。
自分の意識が一瞬にしてバーンと広がり解き放たれた感覚でした。

まだまだ、自由を求めている心が私の内にありますが、そういう自我も、
それと共に、それを見ている意識と共にあり、深く深く自分を見つめ、理解して
いきます。
一切の自我を静めると、その先の無限に、静かに浸透するように思います。

Re:1423日目 - テクニック(11/24)

テクニックに頼ったエネルギーワークによって、自分を束縛して
いる観念や執着の鎖が、ある程度外れるのは事実のように
思うんです。ハートが軽くなる感覚があります。

でも、自分の中にあると思われる観念や執着に対してひたすら
テクニックを使うということがとてもしんどかったんです。

それはなんだか、自分を認めていないというか、否定から入れば
いつまでも否定の世界をさまようことになる気がして。
楽になりたくて安心したくて、テクニックを使うのですが。
kimiさんがおっしゃる通り、まさに「自我が自我を克服しようと
する世界」なんですよね。

テクニックによって楽になろうとする自我は、日々、新しい観念
や執着を作り出そうとするでしょう。犬の尻尾です。
それに、テクニックやワークへの依存が生まれて、テクニックを
実行した結果を期待し、自分が目的とするところまでたどりつく
ための計画を立てようとします。

そこはやはり自我と思考の世界で、なにかを得ようと必死で本を
読んでいたのがテクニックに変わっただけかもしれません。

相対的にでも楽になればいいかなって時に、もしくは緊急策と
してテクニックを使うならいいでしょうか。
(変な質問ですね。いいも悪いも無いですね)
でもそれは見守り理解する、ということと違います。
理解即実行、方法論を越えた自我を越える道を歩きたいです。
ありがとうございました。


うそとテクニック

>それは、自我のゴマカシ。
>自我の延命策以外の何ものでもない。

うそとテクニック、似てますね。
うそはうそを増幅し、
テクニックはテクニックの罠に陥る。

何の手だても持たず、
何の期待もせず、
ただ精一杯生きる時、

真実が見えて来るときがある。
多くの愛に気付くことがある。
自分を理解出来ることがある。

私は、日々生きることを通して、
自我を超えていきたいと思います。

痛みも喜びも、すべて気付きへのチャンス。

もし、方法というものがあるなら、
光の方向へ向かって生きたいという想いと、
精一杯の誠実な生き方・・・
それくらいなものでしょうか。

寄り道、横道に惑わされつつでも・・・。

リ・バース

何度もすみません。

先程体験したことがあって、シェアさせてください。

私のなかに根強くある過去(過去世?)からの癖、パターン。
わけもなくわき上がって来る不安に、時おりフォーカスしてしまいます。

先ほども・・・

また来た と思いながら、

大きく息をしてみました。
そしてにこっと微笑んで・・・
目を瞑って、大いなる宇宙に意識を広げてみました。

そうしてみたら、自然に肩がすとんと落ちました。
緊張していたのですね。
肩が上がるほど、体が硬くなっていたのです。

いつもこうして緊張していたのですね。
いつからだろう。
いつからこうして生きてきているのでしょうか。


かわいそうに。
もうそんなに緊張しなくていいから。
安心していいから。

怖かったね。
つらかったね。
もう自由になっていいんだよ。

頭の緊張をほどいてごらん。
ほどいてごらん。

力が抜けていく。
全身がゆるんでいく。


・・・そんなふうに自分を慈しんで、愛で包んで誘導してあげていたら、
目の前、少し離れたところに、赤ちゃんが見えてきました。
これから生まれてこようとしている、新生児でした。
生まれたばかりかもしれません。

続きです

それは、私です。
リ・バースしようとしているのです。
限りなくピュアな生命の輝きとしなやかさを伴い、内から輝き、
さらに、慈愛のオーラ、祝福のオーラで包まれています。

肉体を持ちながら、意識は常に宇宙のゆらぎと共にあり、
絶対の信頼のなかで、常に満ち足りている・・・
そういうエネルギーを、感じます。

目を開けると、元のエネルギーが戻ってきます。
でも、リ・バースしようとしている私のエネルギーも残っています。

この世と宇宙を繋ぎ、光り輝こうとしている私のエネルギーが、
確かに内にあるのですね。
そこを感じると、すべてが静けさと無限の愛に溶けていきます。

もう、何も欲するものはなく、いのちをそのまま輝かせて、森羅万象の
いのちの輝きと共に、生きていく。

そんな私が、私の内にいます。
赤ちゃんのエネルギーが、先程からずっと私のハートのあたりに
あります。
今までずっと、一緒にいたのでしょうね。
気づかなかったです。

とても、穏やかです。
やさしいです。
大いなるなにかに、慈しまれているようでもあり、私から慈しみの
エネルギーを発しているようでもあり・・・
たぶん、両方なのでしょうね。

監督者

自分を監督している自分はいつも、他者の基準によって、
自分でないどこか、何かの想像上の目でもって、自分を監督しています。

本を読むこと、新しい方法を探す事は基準を新しいものに変えるだけです。
基準が変わると、監督者のつける点数は変動するけど・・・

でも監督者が消えると、監督される自分も消えてしまいます。
点数を付けられてた自分がいないと、私の点数はなくなります。

考え方は考え方を癒すことができる。
でも考え方と私自身は違うものです。

考え方が変わって、いくら自分が自分に安心できるような点数をつけられたとしても、
他者の基準を用いて自分を判断するという、新しい痛みをまた作り出すだけ。

他者の基準を諦める時だけ、採点が無くなるのだと思います。
自分は絶対であり、変化したとしても点数はつかない。
変化しても常にそれであるだけというか。

比較ができるのは物理的な、人との便宜上の世界のものだけ。
でもそれは私自身と違う。映写機が映し出しているひとつの映像なのですね。
映写機ごと消してしまえば映像も消えるのですね。
でも私は消えません。

上手く言えないですが、今まで思っていた学ぶということ、
本質的には意味が無かったような気がします。

内のことは内に還ることのみでしか変化もできない、
内に還って初めて作用するように思います。

追加

学ぶということは、映写機の映し出す映像を
気に入るものに替えることだったのですね。
映像は学習に比例して、どんどん進化する。

でも映写機をやめてしまえば、映像ごと消えるから、
やっぱり学ぶ意味ってなかった。

映像を良くする、映像の持つ痛みは軽減してたと思うのですけど・・・。

だけど何ていうか・・・
映像自体が、人との約束の世界の中だけなので、
どっちみち私自身にはあまり、関係なかった、
そんな風に感じています。

自我塊のゆめまくらです

こんばんは。自我って「それが自我だよ」って言われないとどこまでも気がつかない私ですが、(というか今でも自我ってなに?ってほわーんとしていますが。今生どこまでも自我の旅です)

自我が自我を克服するって生きている限り無理なんだな~っということがわかりました。

~したい、~するという動機がある限り無理なんだと・・。生まれてきている時点でアウトですものね。

自分即我でしたっけ?(なんか書いていて違う)
自分が我であることをよくよく理解することでしょうか‥わたくしは(^^;)

自我を超える=思考を止める=浸るなんていつでもしていそうですけど、身近にあることだと理解されている方はどのくらいいるんだろう~。

…なんだかまた皮肉った言い方になってしまいました。
ごめんなさい。このようなコメントしかできないことをお許しください~(>_<)では去ります。






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光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

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