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1504日目 - 真の主体性


今日の屋久島は、荒れ模様。
激しい雨と風に見舞われている。
山の方は、靄っている。
海の方は、大きな白波が立っている。

主体性とは、何だろうか。
周りから褒められれば、やる気が出る。
周りから貶(けな)されれば、やる気がなくなる。
周りの評価によって、やる気になったり、やる気をなくしたり・・・

なぜ周りの評価が気になるのだろうか。
それは、周りの評価が高ければ居心地がいいから。
逆に評価が低ければ居心地が悪いから。
そのベースにあるのは、自己保存。

自分の安心、安全のために高い評価を求める。
人の主体性は、自己保存ベースで成り立っている。
自分の存続にとって都合がいいかどうか。
都合がよければ俄然やる気になり、都合が悪ければ何もやる気が起きない。

褒められたり評価されたりすると、生きやすくなる。
貶されたり無視されたりすると、生きにくくなる。
主体性は、自分の利害得失にかかっている。
損得で主体性は左右される。

自分にとってプラスと思える時には、主体的になれる。
逆の場合は、主体性を喪失する。
主体性とは、何か。
それは自分の都合によって揺れ動くものなのだろうか。

褒められればやる気になり、貶されればやる気が失せる。
それでは、ほとんど子供と変わらない。
大人になっても、基本は子供?
不動の主体性など微塵もない。

自己保存ベース。
自分の都合ベース。
利害得失ベース。
周りからの評価ベース。

それが、大多数の人の主体性の実態だろうか。
なに?
人類に奉仕するのが生き甲斐?
世のため人のために尽くしている?

誰からも評価されなくても、それを続けられるだろうか。
逆に非難されても、続けられるだろうか。
あるいは、思ったほどの評価が得られなくても続けられるだろうか。
それとも、それでは寂しいだろうか。

真の主体性は、どこから生まれてくるのだろうか。
周りに左右されない主体性は、何によってできるのだろうか。
それは、生きる姿勢だろうか。
真剣に真理を求める情熱だろうか。

人生を真剣に生きる姿勢が、真の主体性をもたらす。
周りの評価を気にしない不動の主体性を実現する。
真剣に生きる姿勢。
真理を求め続ける情熱。

それは、自己保存ベースの主体性とは異なる。
自分の利害得失で揺れ動く主体性ではない。
ひたすら真理を求め続ける主体性。
それこそが、唯一真理に繋がる主体性。

この世ベースの主体性は、相対的なもの。
自分の損得で変化する。
そういう主体性ベースで生きていると、人生はジェットコースター。
大波小波、アップダウンの連続。

周りに左右される人生。
周りに振り回される一生。
それで、果たして自分の人生と言えるのだろうか。
主体性は、どこにあるのだろうか。

真の主体性とは、求め続ける情熱。
深いところからあふれてやまないエネルギー。
いつでも、どこでも変わらない真摯(しんし)な探究心。
深い深い魂の願い。

そういう主体性をベースに生きることだろうか。
そうすれば、人生は充実する。
人生の荒波に弄(もてあそ)ばれることはない。
真の自分を生きられる。


『自己保存 利害得失 ベースなら 評価しだいで 揺れる人生』

『何であれ 周りの評価 気になれば 主体性など 無いに等しい』

『何につけ 身の安全を 第一に 考える時 主体性なし』

『肉体に ベースを置かず 魂の 真の願いを ベースに生きる』

『魂の 願いであれば 人の世の 毀誉褒貶(きよほうへん)に 左右されない』

『真実を 求め求めて 生きる時 左右されない 主体性あり』

『真実の 願い生きれば 揺るぎない 光に満ちた 主体性あり』


これが日記を書き始めて1504日目の心境。


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コメント

完璧な主体性・・・

人間にはむつかしいような。

特に、真理を追究する師匠に追随する弟子は、
師匠を理想としているから。

ロダンとカミユ
アトリエでロダンが創作に燃えている時、
弟子のカミユは、素晴らしい芸術性を発揮できる。
けれど、ロダンが私生活に帰っていくと、
カミユは自分だけでは才能を発揮できなくなってしまう。

人には師匠になる人、
その人を支える弟子になる人・・・って、
タイプがあるように思います。

個人生活はともかく、
真理を追究するとか、芸術を極めるとか・・・
そういう場においては、
師匠の主体性に追随する、
弟子の主体性というものがあるように思います。
そういう場合、
師匠にどうしても理想を求めてしまうし、
それが弟子の主体性の支えとなるんですよね。

主体性に支えなんてないと師匠は思うわけでしょうが、
弟子はやっぱり・・・。
そこが師匠にならず、
弟子として師匠を補佐するという生き方を選んでる魂のつらいとこですね。
もちろん、理想を求められる師匠を選んだ魂もたいへんですよね。

主体性には、何かパワーの燃料がいるような気がします。

分岐

よく思います。
今、自分が望んでいる理想やしたいこと、
無人島でもやりたいと思うかどうかって・・・。

どんなに真理を求めるようでも、向上したいと願っていても、
それは何のためか?と自問します。

自問すると私の場合・・・

正直に言うと、
「そういう素晴らしい自分になって、いつか他人に認められたい」
でした。

だから全ての望みも希望も、無人島では色あせてしまう。

一口に他人と言っても、それはある個人であったり、ある集団であったり・・・
漠然と世間一般(イメージ)だったりしていました。

そんな時、ひとつひとつ剥がれていく、
認めて貰いたい対象が、様々な理由で離れていったり、
こちらが幻滅したり、
もはや権威をかんじなくなってしまったり。

そんな風にネガティブなやり方で、ある時から崩れていきました。
今でも、全ては崩れていません、けど、
基準をどこにもしつらえられなくなりました。

掴もうとしても空だったり、
捉まろうとしても地面とつながってない枝だったり。

淋しい頼りない、足場が崩れてく感覚でした。
じゃあ自分自身しかもういないじゃない、
自分なんて・・・こんなもの何の力も頼りにもならないのに!

虚しいというか、砂を噛んでるみたいな味気ないような。

その幻滅がくり返される時期が一時にやってきて、
今は指針も持てずにいます。
けどようやく、
無人島でやりたいことと、今ここで皆とやりたいことが一致してきました。

何一つ確信のような安心感はなくても、
何かを諦めてしまえば・・・

自分は本当にネガティブだと思います。
失うことによってしか、一歩も進まないようです。
他のやり方はないものか。


人生を真剣に生きる姿勢。

とても深い、広い言葉ですね。



1504日目 - 真の主体性

変わらないものが自分の中にこんこんとある・・・。
ズレズレばっかりで、そんな毎日でしたが・・
日記のおかげ?

昨日は、周りがどうであれ、自分の表面がどうであれ、時代がどうであれ。
左右されないものを強く感じました。

そしたら、それに沿っていくと、生きる意識?
意思?エネルギーみたいなものが、とっても自由になりました。
肉体がどうとかじゃないの。
全体がとっても自由で軽い。

願いに沿っていくものは、いのちを自由に輝かせるのでしょうか。

自我からみる肉体とかと感覚が違う。
肉体は、この願い、変わらないものにそって、
動かす道具みたいな感じのような気がしました。
今まで自我で動かすものと全然違います。

少し芯がとおったような気がしました。
(つっても、とても少しだけです、はい、まだまだです)

変わらないものがある。
なんだかそちらの意識が少し強く感じています。

それと同時に、急に顔に湿疹!アンパンマン!
(姉は、目がひらかないほど顔かわってますが・・これはいつものことで・・)

私は体はここにきて、何回が重りがぬけて、
エネルギーがあがったとき、皮膚に出ます。

皮膚に出るパワーがでてくるって、本当にたまにだけで、私にとってすごいことです

中をぐちゃぐちゃしている私にとっては、皮膚にでるのは嬉しい♪

私のいのちのエネルギーは、真の願いと一緒に開きたいのかな?
だから、何をやっても自我の中ではだめなんだろうかな。
いのちを輝かせられないから。

自分が本当に楽なのですよね。
どこにいてもどんなになっても、自分でいるということ。

イマイチ理解なく、アウトプットに適さないですが、
少しだけ抜けました。
では。またしっかりと現実でやっていきます。

主体性、「何か」からではない自由。

 自灯明、法灯明。

提灯を掲げ導きたがる権威者の意識と他人が保証する安全な幸福を求める依存者の意識から離れ、無名性を霊的な基礎とし自己の価値基準を自己責任で生きる。

与えられた義務を守るだけの外的責任は、他者の評価を得ることはできても自己の評価を得ることはできない、自己の魂の欲求を充たしていない行為は、努力する程に空しさがつのる。  

問題が生じると、「指示に従っただけなので自分に責任はない」「規則どうりやっているので自分に責任はない」など逃げ口上がでる。地位、名声、肩書き、経歴、所有物など他者の評価と結びついた外的な価値基準で自己の空虚さを充たそうとしても、バブルのような虚栄心が肥える。一方、実体である自尊心は脆弱になる。名前のない場所、そこでは他者の評価とは無縁の自己責任と伴に自己の尊厳がある。そこでは他者ではなく自己が自分の行為を見守る者であり、評価する者。他人の目のない所で自己の信頼を裏切るような行為をすれば、自己の評価を失い自らを損なう。

個人の主体性が尊重されなければ、組織化しない無名の共同体であっても、共同体ならず共依存体として存在し、個人は首輪でつながれた犬のように鎖の半径の自由しかなく、共同体から離れたら再発してしまうのではないかと恐れに縛られてしまう。

私の回復の原点となった共同体の創始者の一人であるビル・ウィルソンは、Kとも親しかったオルダス・ハクスレーと出会い交友を深めたとあり、後にメンバーシップに関する12の提案をまとめ、組織化しないことや個人よりも真理が優先されることを盛り込んだ後で、自らの権威を否定するかのように匿名を使うようになった。あたかもKが組織を解散し野に下った事にも似ているので、不思議な因縁を感じている。

主体性こそ自由の本質であり自己責任をエネルギーした行為である。このエネルギーが他者に向かうときは使命感となる。








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光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

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