記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

1690日目 - 嫌いとは・・・


次のような質問が、コメント欄にありました。

「屋久島は二度旅行で行ったことがありますが、とても素晴らしかったです。
都会に住んでる私には、日記で読むkimiさんの生活はなんだか夢のようです。
今のkimiさんには、嫌いな人がいたりとか、怒ったりとか悲しんだりとか、そういう気持ちになる事はもうないんですか??

どうしても嫌いな人(苦手な人)が自分の人生に現れたら、どうすればいいですか?
同じ職場なので、どうしても関わるしかありません。
その人は、他人を徹底的にコントロールしたがります。

何か言われたりされたりしても、こちら側が反応せず冷静に受け止めればよいのでしょうが、たとえば常識的に考えて『バカ』などのように、冷静に考えてたとしても反応ではなく明らかに傷つく言葉や態度は存在すると思います。
そういう事には、どういうふうに取り組めばよいのか教えてもらえませんか?

そもそも、嫌いな人や苦手な人が現れるというのは、どういうことを意味してるんでしょうか。」


このようなことで悩んでいる方は、少なくないでしょう。
多くのところで見聞きすることです。
今の人間にとっては、日常的な出来事ですね。
これが、今の人類の一般的な意識レベルでしょう。

そもそも、嫌いな人や苦手な人が現れるというのは、どういうことを意味しているのでしょうか。
好き嫌いは、個人差があります。
ですから、客観的な基準ではありません。
個人的な嗜好です。

それは、食べものの好き嫌いと変わりません。
ファッションや動物の好き嫌いとも変わりません。
まったく個人的なことです。
同じものを見聞きしても、反応は人それぞれです。

嫌いとか苦手というのは、どういうことでしょうか。
それは、自分のペースと合わないということでしょうか。
それとも、自分の思うとおりに動いてくれないということでしょうか。
あるいは、自分の弱みをストレートに言われるということでしょうか。

いずれにしても、自分にとっては都合の悪い人です。
居心地がよくないのですね。
できれば、避けたいのです。
一緒にいたくないのです。

でも、職場や家族や同じクラスなど、どうしても避けられないこともあります。
そういう場合は、どうしたらいいのでしょうか。
じっとガマン?
それとも、戦う?

あるいは、じっと踏みとどまって自分の反応を見つめる?
なぜその人が嫌いだったり、苦手だったりするのか・・・
それは、その人のせい?
それとも、自分のせい?

老若男女すべての人が嫌いなわけではないので、相手のせいとは言えません。
では、自分のせい?
答は?
そのとおり!

自分が、嫌いであり苦手なだけです。
それは、自分の傾向です。
自分の嗜好です。
またの名を、自我とも言います。

自分にとって都合の悪い人は、なぜ嫌いなのでしょうか。
別に嫌いになる必要はありません。
でも、嫌いになる場合がほとんどです。
そのわけは・・・

その人の存在を認めたくないということでしょうか。
あるいは、無視しようとしているのでしょうか。
それとも、否定しているのでしょうか。
相手を否定することによって、自分を守っているのでしょうか。

嫌いというのは、傷ついた自分を守る行為かもしれませんね。
好きな人がこちらを振り向いてくれないと、嫌いになります。
本当は好きなのに、嫌いになってしまうのです。
可愛さ余って憎さ百倍!

愛憎の愛なのですね。
愛と憎しみは、裏表。
いずれも所有です。
自分のものにしたいという・・・

自分のものにできれば、好き。
自分のものにできなければ、嫌い。
自分の思うとおりになれば、好き。
自分の思うとおりにならなければ、嫌い。

自分勝手な自我そのものです。
自分のものにして安定したいのですね。
それは、自己保存です。
自己中心的ということです。

別にそれが悪いと言っているわけではありません。
ただ、それが紛れもない事実であるということです。
それをありのまま認めることでしょうか。
好き嫌いではなく、事実と共に生きることです。

好きや嫌いは、変化します。
ちょっとしたきっかけで、大好きになったり、大嫌いになったりします。
そういうものに振り回されないことです。
自分の嗜好のパターンを理解することです。

コントロールしたがる人が嫌いなのは、自分がコントロールされたくないからでしょう。
でも、本当は自分がコントロールしたいのかもしれません。
コントロールとは、自分の思うとおりにしたいということです。
別の言葉で言えば、支配です。

支配とは、所有です。
コントロールゲームとは、支配や所有をめぐる争いです。
それは、人類が延々とやってきたことです。
それを、これからも続けるつもりでしょうか。

それを続けている限り、アセンションは夢のままでしょう。
いい加減、そういうものから離れることですね。
「バカ」と言われて反応するのは、自分も同じ次元に住んでいるからです。
別の次元にいれば、いちいち反応はしません。

幼児が「バカ」と言っても、相手にしないでしょう。
アルツハイマーの人に「バカ」と言われて、本気で怒る人はいないでしょう。
幼児やアルツハイマーの人に対して本気で怒ったら、怒る人の人格が疑われます。
要は、相手と同じ次元にいるかどうかということです。

自分を磔にして槍で刺そうとした兵士たちに向かって、イエスは言いました。
「この者たちは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。」
そういう者たちを、イエス・キリストが憎んだり怒ったりすると思いますか。
でも・・・

普通の人は、相手に対して怒ったり憎んだりするでしょう。
それは、相手と同じ次元で生きているからです。
怒りや憎しみや恨みや悲しみの次元ですね。
つまり、支配や所有の次元です。

そういう次元で生きれば、同じように反応するだけです。
そして、お互いに相手が悪いと罵(ののし)り合うことになります。
別にどちらが悪いわけでもありません。
同じコップのなかで、お互いに支配したがっているだけのことです。

傷つくということも、個人差があります。
それは、客観的なことではありません。
些細なことで傷つく人もいれば、あまり傷つかない人もいます。
それは、個人のパターンに過ぎません。

別に傷つく必要はないのです。
勝手に傷ついているだけです。
自動的に傷つくパターンに陥っているのです。
気づかないままに、同じパターンを繰り返しているのですよ。

傷つくとは、ショックです。
想定外のことが起きたということですね。
でも、それは自分が何かを想定していたということでもあります。
思い込みが、裏切られたのです。

「バカ」と言われて傷つくのは、自分をバカとは思っていなかったからでしょう。
逆に立派と思っていたのかもしれません。
あるいは、なにがしかの誇りを持っていたのかもしれません。
もしくは、プライドがあったのでしょうか。

そういうものを否定されると、傷つくのですね。
それは、自分の思い込みが否定されたからです。
想定外のことにショックを受けたのです。
そして、自分を守るために相手を嫌いになるのです。

すべて自分を守ろうとしているだけです。
それは、自己保存の本能とも言えます。
ですから、別にそれを否定する必要はありません。
でも・・・

それに振り回される必要もないのですよ。
そういう次元で自分を守らなくても、見守るという次元もあるのですね。
イエス・キリストは、自分を殺そうとした兵士たちと争ったりはしませんでした。
支配や所有の次元には生きていなかったのですね。

そういう次元でもがいている彼らを理解していたのです。
だから、憎むことも恨むこともなかったのです。
ただ無知である彼らを憐れんだだけです。
無知とは、自分自身を知らないということです。

自分の意識構造を理解することでしょうか。
どうして反応するのかを深く突き詰めて見つめることですね。
反応を絶対視しないことです。
反応の根っこを見極めることですよ。

都会にいても田舎にいても、変わりませんよ。
屋久島に住んでいても、ノイローゼーになる人はいます。
病人は、後を絶ちません。
人がいるところは、どこも同じです。

場所ではないのですね。
意識の問題です。
どこにいても同じです。
自分の意識が変わらない限りは・・・

自分自身を理解することです。
それが、自然に相手の理解に繋がります。
自分と相手は、似たような意識構造です。
ただバリエーションが違うだけです。

自我とは、自己の安全を求める意識です。
それ故、支配や所有に走ります。
それは、肉体の本能に基づいています。
本能と思考のドッキングです。

それは、極めて根強いものです。
それを超えるには・・・
否定するのではなく、理解することです。
自分自身を理解することです。

理解が深まれば、自然にそういうものに振り回されなくなります。
まだまだ自分の意識構造がわかっていないということです。
だから、自分自身のパターンに振り回されているのですよ。
問題は、相手ではないのです。

自分自身を知らないということです。
どうしてそのように反応するのかがわかっていないのですね。
自分のことを自分が知らないということですよ
それが、今の人類にとっての最大の課題なのです。

自分自身への理解が深まれば、そういうなかでいかに生きるかが自然に見えてくるでしょう。
相手に振り回されないことですね。
自分の反応にも振り回されないことですよ。
双方を理解して生きるということです。

双方を理解するというスタンスは、自我を超えています。
自我とは、自分だけの一方的なスタンスです。
そういう次元を超えることですね。
自分さえよければいいという次元を超えることですよ。

自他共に生きる次元へシフトすることです。
みんなと一緒に生きる次元ですね。
すべての人を生かす次元。
理解の次元です。

アセンションとは、そういうことです。
意識のシフトです。
一方的な自我の次元から、すべてを生かす次元へのシフト。
それには、自我ベースを超える必要があります。

そのスタートは、自分自身を理解することです。
隗(かい)より始めよ!
遠回りのようですが、それが一番の近道です。
自分自身のなかに、すべてがあるのですから。


『身を守る ための反応 嫌いとは 心閉ざして 自分を守る』

『双方を 理解するのが 新次元 自己中心が 今いる次元』

『双方の 反応共に 見守って 両者を活かす 視点必要』

『反応の 次元を超えて 見守れば 反応のない 世界が開く』


これが日記を書き始めて1690日目の心境です。

関連記事

コメント

自分の身を守るために。。。

かなり四苦八苦してました。 反省です(涙)

おなじような経験

同じような経験を以前したことがあります
最初は、相手のことを挙げ連ねていましたが、ふと「なぜ自分はこういう風に感じてしまうのだろう」と思い始め視点が相手から自分に移りました
自分の中で起こる反応を徹底的に見ました
そうするしかなかったのです
なぜなら相手は悪気を持っていなかったから
見方を一点から360度にしました
自分も辛いように相手も辛い状態ということを理解しました
でも、このようになるまで2年くらいかかりましたが今は相手を愛おしくすら感じます

練習、練習、練習だと思います
自分に対してもあきらめず、相手に対してもあきらめないでください
この練習が人生のなかでとっても役に立ちます

kimiさんがおっしゃるように「すべては自分自身の中に」あります

グットタイミング!

この相談は、わたしのことか!と
思ったぐらい、興味深々の今日のお話。

職場の同僚に言われて、内心怒っている自分が
います。家に帰って落ち着いてからでないと
自分の反応を観察できません。

でも分かったことは、相手が自分の思うように
動いてくれないから腹が立つのですね。
相手は自分の鏡だと思って見ていると
いいのですね。
senjuさんもおっしゃっているように
練習、練習ですか。

やるしかないか。

愛の次元

「この者たちは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。」

ずっと以前、あるご縁をいただいた牧師さまから、イエスのこの言葉を教えて
いただきました。
その牧師さまは、この言葉に出会い、目覚め、牧師への道を歩まれたのだとか・・・
この言葉に出会われたときの牧師さまは、きっと、ご自分の内側から堰を切った
ように光があふれ出されたのでしょう。

そして、その言葉に出会われたときの感動を私に話してくださったとき、私も
同じように、私の内側の光が、何かに呼び覚まされるように突然輝きはじめた
のでした。

そのような、魂を揺さぶられ、はっと気づかされる、私を根底から目覚めさせて
くれる言葉に人生の最初、一度目に出会ったのは、10歳の頃に読んだ小説の
ある司教のセリフです。

レ・ミゼラブルの、ミリエル司教の言葉です。
ミリエル司教が、ジャン・バルジャンに、二本の銀の燭台をあげるシーンです。
有名な小説なので、ご存知の方はたくさんいらっしゃると思います。
長くなるので、詳細は省きます。

子供だった私に、そのミリエル司教の愛はどれほど大きく響いたでしょうか。
私の心の奥深くに、真っ直ぐに響いてきました。
無償の愛、罪や罰など遥か彼方に越えたところから接する大きな愛というのが
あることを、子供心に、じんじんと感じ、それは感動しました。

以来、ミリエル司教の言葉とイエスの言葉は、ずっと私のなかに息づき光り、
いつも大きな愛として存在しています。
私を人生で二度、大きく目覚めさせ、大切な大切なことに気づかせてくれた
二つの言葉です。
ひとつは、10歳の頃、ひとつは、20代も半ばの頃。

続きです

そのような、どんな人も大きく包み込む愛に触れると、それが直接体験でなくとも、
誰かの言葉でも、行いでも、小説でも映画でも、自分の中の大きな愛が、はっと
目覚める瞬間があると思います。
これは、大なり小なり、皆様に経験のあることと思います。

でも、この世に埋没していると、そのように浸透してきた愛も、いつか置き去りに
されてしまう、忘れ去ってしまうこともあるかもしれません。

この日記を読まれているということは、その都度その都度、瞬間瞬間目覚める
チャンスを与えられていることでもあります。
これは、すごいことではないでしょうか。

自分自身を理解すること、自他共に生きる次元へシフトすること、すべてを包み
込む意識、見守る意識・・・
大きな大きな、はかり知れない大きな愛の次元と響きあいながら、すべての
出来事、人、物、事、森羅万象と生きていきたいですね。

それは、すべての人が可能です。
少なくとも、この日記を読んでいる人にとっては。
ここに来るということが、そのような方向へ魂が向かっているということですから・・・
いつか、愛のなかへ、還れます。
そう思います。

今、ここにいる等身大の自分から…

自分の感情を良くないものだと否定しないし、かといって盲従して流されたり振り回されたりしない。出来れば静かな場所でありのままの感情を感じてみる。感情の部分とそれを観察できる部分でまず内的な対話を少しずつ始めてみる。感情の元になっている前提の思考が如何に自己中心的で無根拠なものかわかってくると思います。感情が動かされる時はきっとエゴについて知る機縁なのかも知れませんよ。小生なんぞも日々感情やスケベ根性を煽られ揺さぶられの毎日でしかありません。(^_^;) 「私」の体験をとおして少しずつでも深遠な世界を理解していけたらと思うのです。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

Twitter

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

カウンター

  
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。