記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

1715日目 - 愛猫の死


コメント欄に次のような書き込みがありました。

「今日、愛猫が死にました。
とてもつらいです。
三歳で、急に元気がなくなり、あっというまに死んでしまいました。
kimiさんのようには、何もしてあげれませんでした。

『いつまでも 同じ形で いてほしい それが執着 苦しみの元』

ほんとうにそうだと思います。
でも、わたしには彼がみえない、エネルギーの一体化が今のところできていません。
なにか訓練できることがあったら教えてください。
お願いします。」


頭ではわかっていても、辛くてどうにもできないということでしょうか。
その原因は、突然の死にあるのでしょう。
予期された死であれば、ある程度の心の準備ができます。
それほどのショックもないでしょう。

しかし、まったく予想もしないことが起きると、心の動揺がなかなか収まりません。
想定外のことに、心は落ち着き場所を見つけることができません。
有るのが当たり前と思っていたのですね。
常に有るものと思い込んでいたのです。

しかし、この世は無常。
思わぬことが起きます。
その度に心は揺れ動きます。
現実を受け入れるのに時間がかかります。

思い込みが強ければ強いほど、それが外れた時のショックも強くなります。
思い込みが強いとは、それに囚われているということです。
それを自己所有しているのですね。
しっかり握りしめているのです。

それが突然強制的に取り上げられると、右往左往してしまいます。
しっかり掴んでいた手を、いつまでも離せません。
もう中身はないのに・・・
それが、執着というものです。

今、今を、真剣に生きるしかありません。
全力で今を生きるのです。
思い残しがないように。
今に居切る(生きる)のです。

そして、日々、感謝と共に終わらせることですね。
刻々を感謝と共に完了させる。
軽やかに、その時を全力で触れ合うことです。
今、今を完了させ続けることですよ。

でも、そういう生き方をしてこなかったら?
既に亡くなってしまったら?
どうしたらいいのでしょうか。
それは・・・

心ゆくまで付き合うことですね。
まだ未練が残っているのは、不満足だからでしょう。
十分に満喫していなかったのですね。
それを味わい尽くすことですよ。

既に死んでいるものを、どうやって味わい尽くす?
それは、イメージのなかで楽しむということです。
イメージのなかで猫と遊ぶのですね。
思いっきり遊ぶのですよ。

もう十分というまで遊び切るのです。
もう思い残しがないというところまで、一緒に楽しむのですよ。
そうすれば、未練は消えるでしょう。
いつまでも死んだものに執着することもなくなるでしょう。

この世にいる時に楽しみ切れなかったということですね。
まだ不十分なので、消化不良になってしまったのです。
そうであれば、心ゆくまでイメージのなかで遊ぶことですよ。
そして、楽しみ尽くして手放すのです。

それと共に、これからは今の瞬々を大切に生きることですね。
未練が残らないように真剣に生きることですよ。
触れ合うものと、出会うものと心を込めて付き合うことです。
今を生き切ることですね。

そうすれば、後には何も残らないでしょう。
両手を広げ、心から抱きしめ、そして手放す。
いつもフリーハンドであれば、何も未練はありません。
そういう生き方をしない限り、後悔の多い人生となります。

今ここを楽しんでください。
今この瞬間を十分に共に生きてください。
出会うもの、触れ合うものと心ゆくまで楽しんでください。
すべては、すばらしいのですから。


『今ここを 味わい切って 楽しんで 何も残さず 白紙で生きる』


これが日記を書き始めて1715日目の心境。


関連記事

コメント

しばし絶句

「すべては、すばらしいのですから。」…絶句。
心からこう言えるようになれるのだろうか。

無題

「心ゆくまでイメージのなかで遊ぶことですよ。
そして、楽しみ尽くして手放すのです。」

 今まで何年間も心底で、私の中で未消化であったシコリがこの一言で解け始め、解き放たれていく予感と期待感に満たされました。

これまで心の傷だと思っていたもの、”理(ことわり)”で心に刺さっていた釘を抜いてみても、跡が残り現在を直視できずに、釘はもう存在していないのに(?)、傷跡(過去)に執らわれ脱し切れなかった自分。

問題点に向き合っているつもりが、実はただの”理屈探し”であり、自己の内面から治癒される解決法ではなく、あくまで外界からの正論を上塗りし傷口を塞いでいただけの行為だったんだなとも気づきました。

イメージは自分のもの、自分の想像力であり創造力。
理屈は正論であっても、他人のものであり一般的なもの。

個性の違うすべての人に当てはまるわけがなかったのですね。こんな当たり前のことをKIMIさんの文章で気づきました。

今日この文章を拝読できたことに感謝でいっぱいです。

コメントを投げかけて頂いた方、KIMIさんどうもありがとう。







 
 

ありがとうございます

Kimiさん、メッセージをありがとうございます。
昨日13日に火葬し、彼はみえるものとしては骨だけになりました。
有るのが当たり前。有るのが当たり前じゃないからこそ、それを考えないようにして生きてきました。
不変がないという事実が不変であることがせつなく、だからこそ可能な限り変わらないままでいてほしいと願って生きてきました。
しんでもうまれかわっても、ずっといっしょね、と毎日のように言って思って生きてきました。
そして今も。
この執着、自我がある限り、きっと悲しみは癒えないのですね。
Kimiさんのおっしゃるように、心ゆくまで、イメージの中でいっしょにいたいと思います。
潜在意識は、現実とと空想の違いを認識できないといいます。
きっと、わたしもイメージが現実のように感じることができるようになりますでしょう。
ふれることができない、みることができない、その事実のダメージが大きすぎて、かたちはなくなっても、ずっといっしょにいることが今はわからなくなっていますが、彼とすでに一体化していることを信じたいと思います。
うちには、彼の母猫と兄弟と、もう一匹のにゃんこと、あと5にゃんこいます。
これからも、彼らと心を込めて付き合っていきます。
どんなに心を込めて付き合っても、わたしにはいつまでも未練が残ってしまいそうですが。。。
わたしなりに、右往左往して生きていきます。

わたしの声にこたえてくださったKimiさんの温かいお心に感謝いたします。
隣の骨猫からも、ありがとうございます、お礼を述べさせていただきます。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

Twitter

カレンダー

10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

カウンター

  
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。