記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

1871日目 - 何もしない(2)


1864日目の日記(何もしない)について、次のようなコメントがありました。

「やってみてるのですが、難しいです・・・
『何もしない』の時、自分の観念も手放せないと、その観念からまた掴みなおしてるのでしょうか。」


人のなかには、いろいろな感情や思いがあります。
そのなかの強烈なものに、人は振り回されます。
怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、不安、心配、恐れ・・・
そういうものが、人の心の自由を縛ります。

現代人は、思いや感情をベースに生きています。
思いや感情が、自分自身と言っても過言ではありません。
逆に言うと、思いや感情に振り回されて生きているとも言えます。
それは、苦しみの多い人生です。

そういう自分の感情や思いを何とかしようとすると・・・
感情や思いの泥沼にはまってしまいます。
なぜなら、何とかしようとするのも同じ感情や思いだからです。
それでは、いつまで経っても感情や思いの泥沼から抜け出せません。

唯一、泥沼から抜け出る方法が、何もしないということです。
感情や思いから距離を保つのですね。
感情や思いそのものにならないのです。
感情や思いを何とかしようとしないのです。

ただ感情や思いを見守っているだけです。
良いとも悪いとも評価しません。
一切判断しません。
ただそのままにしておくのです。

そうすれば、そういうものは消えていきます。
消えて二度と出てこないものもあれば、しつこく何度も出てくるものもあります。
何度出てきても、そのままにしておくのです。
そういう感情や思いと関わらないのです。

それを否定する必要はありません。
それを鎮めようとする必要もありません。
抑え込む必要はないのです。
出てくる感情や思いは、そのまま出るにまかせるのです。

それに囚われないことですね。
それに執着しないことです。
それは、それ。
認めて、そのままにしておきます。

よけいなことを考えないのです。
それにまつわることをそれ以上考えないのです。
そのままにしておくだけです。
そうしていると・・・

やがて、感情や思いに振り回されない意識が育っていくのです。
それこそが何よりも重要です。
それが次の意識の主体となります。
自我に変わるものです。

今は、記憶をベースにした「私」というもので生きています。
「私」が生きる主体です。
しかし、この「私」の実態は、極めて曖昧なものです。
それは、記憶をベースに作られたイメージでしかありません。

曖昧な「私」というものをベースに人は生きています。
この「私」は、刻々に変化します。
ある時は怒っていたり、ある時は笑っていたりします。
「私」にとっての利害得失で感情や思いは変化します。

しかし、その利害得失も「私」が勝手に思い込んでいるだけです。
それは、時と場合によって違ってきます。
すべて思い込みです。
思い込みから感情や思いが沸いてくるのです。

その沸いてきた感情や思いに対して、また感情や思いが沸くのです。
それは、感情と思いの堂々巡りです。
いつ果てるとも知れない感情と思いの泥沼です。
無限地獄のようなものです。

そのような思い込みをベースにした感情や思いに振り回されないことです。
それをやっている限り、永遠に救いはないでしょう。
そういうものは、ただ見守っていればいいのです。
関わらないことです。

人には、たくさんの観念があります。
観念とは、思い込みです。
その思い込みが、いろんな場面でいろんな感情や思いを沸き立たせます。
その際に、自分の観念(=思い込み)に気づくこともできます。

一つ一つの観念(=思い込み)に気づいて、それを外すのも意味があります。
一つの観念(=思い込み)が外れる度に、意識は自由になります。
それを繰り返していけば、やがて加速度がついていきます。
それも大切ではありますが・・・

それには、時間がかかります。
一つ一つの観念(=思い込み)に気づき、外していくのですから。
人は、膨大な観念(=思い込み)を持っています。
それを全部外すには、天文学的時間がかかるかもしれません。

観念(=思い込み)を外している間に、人生が終わってしまうかもしれません。
それでは、何のための人生なのかわかりません。
ポイントは、観念(=思い込み)を外すことではないのです。
最も重要なことは、観念(=思い込み)の外に出ることです。

観念(=思い込み)の世界から抜けることです。
それには、見守ることが唯一の道なのです。
見守る意識が育つことが、何よりも重要です。
その意識が、自我に変わる次の主体となります。

観念(=思い込み)の世界は、自我の世界です。
自我の世界は、悩みと苦しみの世界。
悲苦の巷です。
そういうところには、もう住まないことです。

別の世界に住むのです。
それこそが、真の意味でのアセンションです。
意識が自我の世界から自由になることこそが、真のアセンションです。
外側の変化は、たいした意味を持ちません。

自我を超えること。
感情や思いの世界から自由になること。
観念(=思い込み)の次元の外に出ること。
それが、真の意味でのアセンションです。

真のアセンションとは、感情や思考の次元を超えることです。
悲苦の連鎖を断ち切ることです。
観念や思い込みから何かをすることが、悲苦の連鎖に繋がります。
何もしないで見守ることが、悲苦の連鎖を超える道です。

静かに生きることですね。
自分自身を見守りながら生きることです。
感情や思いに囚われないで生きることです。
自分の内側から出てくるものを見守りながら生きることですね。


『思いから 何かをすれば 感情や 思いの連鎖 切れることなし』

『透き通る 意識ですべて 洞察し そこから行為 自然と起きる』

『方法を いくらやっても 大気圏 見守ることが 大気圏外』


これが日記を書き始めて1871日目の心境。



* 日記の日数がずれていたようなので修正します。
   (1743日目が二つありました)



関連記事

コメント

Re:1871日目 - 何もしない(2)(02/15)

思い込みをはずすには、天文学的時間がかかるんですね。びっくり。

見守る意識が育つように
この日記を何度も読み返しながら
感情や思考の次元を超えていきたいです。

ありがとうございます。

ちょっと何もしないでいられる・・・かな?

最近、心底腹が立つとか、悲しいとか、
悔しいとか、思わないでいられるのですが、
うんとうれしいとか、
楽しいとか、心揺さぶられるほど感動するとかは、
想いに振り回されていたいなあ・・・。

でもそういう想いも、
期待とかしないで瞬間を楽しむに留め置かないと、
また心さみしいに繋がる危険はありますね。

今、大気圏外にいる気分ですけど、
たまたま、想いの泥沼に足を突っ込んでいないだけかも知れない。
もう、一切心乱れることはないなんて太鼓判は押せないなあ。

たまたま危険を回避できてるだけかも知れないけど、
もしかしたら想いの泥沼に気付く感性が鈍感になって、
気付かないうちに通り過ぎてるのかも知れない。

何もしない・・・じゃなく、
何も出来ないくらい鈍感なおばあちゃん・・・ってことかも知れない。

鈍感って、大気圏外とやっぱり違うのかなあ・・・。

バイブレーション

私事ですみませんが、今朝、感じることがあったので、シェアさせてください。

何もしないこと・・・

『いのちの島=屋久島』 も、ここ二度の投稿の内容が 「何もしないこと」 でした。
一度目の文章はもう十日ほども前のことですが、今朝アップした文章は前回に続く
内容として次にアップしようと決めていたものでした。
K-Communication からのものです。

K - コミのその文章を選んでいたときから、ポエムの静けさが内に浸透して、
なんともいえないしんとした静寂さに思考も静まりきるのを感じました。

そして、思考の静寂とはこれほどまでに安らぎと解放を感じるものなのか と、
深く静かな感動を覚えました。

今朝、いのちの島を更新しようとあらためてその詩を読んでいたら、感動は褪せる
こともなく、その静けさはさらにさらに深みを増して私の内を細やかに震わせました。

無色透明での 「何もしないこと」 についての二度の内容が、私のなかに流れていた
こともあったのでしょう。
透明な叡智が、さらに細やかなバイブレーションで浸透してきて、私の内で静かに
息づいていた精妙なバイブレーションと共鳴した感覚でした。

胸の奥に一瞬熱いものを感じ、そしてそれはやさしい陽の光のようなあたたかさとなり、
私の内から如来の光のように広がっていきました。
私は静かに感動に震え、目頭があつくなりました。

そのあと、K-コミのいくつかのポエムを読んでいて、以前それほど感じなかった詩に、
いいようのない広がりと愛、そして何か(言葉では表せない)とひとつになる感覚を感じ、
また、私の内が共鳴し、静かに光に満ち感動に震えたのでした。

何度も読んでいた詩なのに、その詩のエネルギーが、以前読んでいたものとは違って
いました。

続きです

と同時に、「私は何をどこまで感じ、何とどこまで共鳴しているのだろう、すばらしい、美しい
と思っていても、まださらに奥がある、まださらに細やかなバイブレーションが存在している、
それはどこまで続くのか・・・」 と、遠い宇宙のはてを想うような未知の世界にしばし想いを
馳せまました。

そして、自分の意識次第で、その未知の世界を知っていくことができる・・・、
それはなんとすばらしいことだろうか・・・と、思いました。

人の深奥には、真実、真理に共振共鳴する精妙なバイブレーションが存在しているの
だと思います。

観念を外していくのは気の遠くなるような作業ですが、意識の目覚めを促してくださる
この日記を真剣に読み続けることにより(K-Communicationの時代から20年にわたり、
kimiさん、ありがとうございます)、その精妙で透明なバイブレーションに絶えず繋がる
ことができます。

そして、流れてくるエネルギーを常に内に満たすことで、意識の目覚め、解放も加速度を
増すように思います。

もちろん、依存してはいけません。
地道に、自分を見つめ、真摯に真剣に自分自身と向き合うことが何より大切です。
その先に、kimiさんが導いてくださる光の道があるのでしょう。

私たちの意識は、その光の道を進むにつれ、愛と共に広がっていき、さらに細やかな
バイブレーションになっていくのでしょう。
そして気がつけばいつの間にか、自我の外、大気圏外に出ているのかもしれません。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

Twitter

カレンダー

10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

カウンター

  
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。