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1950日目 - リセット

 

朝、庭に出ると、どこからともなく馥郁(ふくいく)とした香りがしてきた。
春の香り。
自然の香り。
香りの元を辿っていくと・・・

そこには、ハマニントウ(浜忍冬)の花が咲いていた。
これまで自宅では見たことがなかった。
近くの野原には、たくさん自生している。
いつの間に自宅で育ったのだろうか。

春になって、あちこちで花が咲いている。
誰が植えたのでもない野の花。
目立つことなく、静かに咲いている。
楚々として、力強く咲いている。

自分とは、何か。
自分とは、自己限定ではないだろうか。
自分とは、自分で自分を規定したもの。
それ以外に自分というものがあるだろうか。

試しに、一切の自己限定を外してみる。
そうすると、どうなるだろうか。
自分は・・・
なくなってしまう。

もちろん、自分はなくなっても意識はある。
それは、自己限定のない意識。
名もない、ただの意識。
今ここの意識。

自分とは・・・
ある時は、名前。
別の時は、職業。
他の時は、役割。

父親であり、息子であり、孫になることすらある。
会社ではOLであり、自宅では主婦。
自治会の役員であり、ボランティアであり、母親。
時と場合によって、自分は変化していく。

ある人には、親切。
別の人には、意地悪。
自分は、良い人?
それとも、悪い人?

人に対しては、寛容。
自分に対しては、厳しい。
と、思っている人もいるだろう。
ところが・・・

他の人もそのように思っているとは限らない。
自分勝手で、我がまま。
周りのことを考えないで、何でも自分の好きなようにする。
と、思われているかもしれない。

自分が持つ自己イメージと他の人が持つイメージとでは、一致しないことも多い。
それは、見る角度が違うから。
見る人それぞれが、独自のイメージを持っているから。
つまり、自分とは、自分が持つ自己イメージに過ぎないということ。

その自己イメージも変化する。
永久不変ではない。
褒められれば自己イメージはアップし、逆の場合はダウンする。
自分というイメージは、常に変化している。

すべては、仮初(かりそ)めのもの。
一時的なものであり、固定的なものではない。
昨日と今日とで異なっている時もある。
1時間前の自分とも違っていたりする。

自分とは、可変的。
一定の自分はない。
ただ刻々に変わる意識があるだけ。
次はどう変わるかわからない意識があるだけ。

すべての自己限定を外す時、自分は消える。
自分が消えれば、悩みも消える。
自分があるから、いろいろ悩む。
自分がなければ、見栄も体裁もいらない。

ありのままの自分がいる。
自分という自己限定のない意識がある。
それは、もう自分とは呼べない。
名もないただの意識。

自分とは、何?
それは、自己限定。
自己イメージであり、自己定義。
単なる思い込み。

自分という、一定不変のものはない。
自分は、常に変化している。
常に変化しているものを固定的な名前で呼ぶのは、無理がある。
にもかかわらず・・・

すべてに名前が付いている。
名前を付けることは、定義。
特定し、個別化すること。
変化しているものを固定すること。

しかし、いくら名前を付けても変化は続く。
その結果、成長するに従って名前が変わる魚もいる。
人も、○○ちゃんから、○○君となり、○○さんとなる。
自分というものも変化する。

自分とは、仮初めのもの。
一時的なもの。
期間限定バージョン。
賞味期限があるもの。

あまり自分にこだわらないことだろうか。
所詮、自分とは、仮初めのものなのだから。
突き詰めていけば、今、意識があるだけ。
今、今、今の意識があるだけ。

一旦、すべての自己限定を外してみる。
そうすると、どうなるだろうか。
名なしになると、どんな気分だろうか。
完全な自由があるだろうか。

すべてを白紙に戻してみる。
リセット。
ゼロからの再スタート。
その時、すべてが新鮮に見えるだろうか。


『刻々に 変化変滅 する意識 固定する時 自分生まれる』

『自分とは 過去の記憶と 思い込み 自分でつくる 自己のイメージ』

『自分とは 自分で自分 定義する ことで成り立つ 仮初めのもの』

『厳密に 定義する時 消えていく 自分は過去の 記憶・イメージ』


これが日記を書き始めて1950日目の心境。


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コメント

Re:1950日目 - リセット(05/05)

風が気持ち良い今日です♪♪

何にもなくても幸せ^^

でも少し退屈~~~~☆

(↑ 限定してますかね
   生活を。。。)

荒野の自分

若い頃、
引きこもりではまったくないんだけど、
自分を物陰に隠したいという衝動があって、
例えば、前髪を長くして顔を隠してみるとか、
地味な色で、でもそれなりの主張のある服を着るとか、
ゴーゴークラブ(古~~~~!!)やディスコで、
ギンギンに踊りながらもホールの隅で、
自分の世界に自分を隔離していた。

すべて裏返しの自己主張なんだけれど、
それは自分をさらけ出して荒野に立つことが、
無性に怖いということでもありました。

何という認識のない曖昧模糊の自分ながら、
その自分を守ることに必死の年頃・・・・

いや、私という人間の大いなる癖なのかも知れない。

今でも、
安全地帯にいて荒野の稲妻の過激な光をキレイだと思う私。
稲光のただなかには立たずに・・・。

日替わりの掴み所のない自分であっても、
無防備なまま荒野にわが身を置けない・・・
鎧兜に身を包み、なお漠たる物陰に立てこもる。
されど鎧の中の自分とは何かも知り得ずに・・・。

自分というものが、
仮初の掴み所のないものだからこそ、
鎧で囲い込まないと霧散してしまうという恐怖があるのか。

おばあちゃんになって、
やっと荒野の入り口あたりで、
アメーバーえっちゃんはのたりくたりと漂っている。
いかにも、
自分、自分なんてのはもう遠い昔のことよ~~~ん、
とうそぶきながら、
クタクタになった鎧を小脇にしっかり抱え込む。

荒野は遠い。
無防備な自分・・・空っぽの自分
自分とは、ただの鎧なんだと知るのが怖い。

生きているうちは

自分でいたいので一生わたくし、はずせそうにありません。
困ったものですな。

あれ?変

今日はおはようございますさん☆
になっちゃった…

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Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

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