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1961日目 - アート

 

真っ暗の新月から、少しずつ光が満ちてくる。
そのプロセスは、漆黒の闇から宇宙ができあがる姿を彷彿とさせる。
満月になる時、宇宙は完成する。
完成したものは、また欠けていく。

それは、呼吸にも似ている。
吸い切ったら、吐くしかない。
いつまでも吸い続けることはできない。
吸ったり吐いたりが、呼吸というもの。

食べものも同様。
食べてばかりはいられない。
食べたものは、出す必要がある。
この世のものは、すべて同じ。

すべて循環している。
その循環が、いのち。
その変化こそが、色の世界の営み。
集合離散の繰り返しが、宇宙の実態。

それは、子供たちの波打ち際での砂遊びに似ている。
日々、新しい砂の造形を創る。
しかし、次の日には、跡形もない。
その繰り返し。

何のためにそんなことをしているの?
と、子供に聞く人がいるだろうか。
もしいたら、子供は何と答えるだろうか。


子供は、その答を知らない。
ただ楽しいから・・・
と、答えるのではないだろうか。
遊びなのだから・・・

始まりがあるものは、終わりがある。
しかし、終われば、また新しい始まりが待っている。
その繰り返し。
永遠の繰り返し。

同じことは、二度とない。
常に変化している。
無限の組み合わせの変化。
限りない創造宇宙。

人は、自分を基準に物事を判断する。
変化の速い遅いも、人の一生が基準。
サイズも、人の体が基準。
美醜も、自分の感性が基準。

人間の五感を基準にして、すべてを判断する。
人間の感覚では、石は変化しないように見える。
花が開くのも見えない。
しかし、風に流される雲は、変化しているのがわかる。

宇宙の周期は、人間の時間感覚を超えている。
あまりにも長過ぎて、実感がわかない。
水晶が結晶するのにさえ、数万年を要する。
その感覚も実感できない。

人が感知できる範囲は、限られている。
目に映るものは、虹の七色の範囲。
大き過ぎても、小さ過ぎても見ることはできない。
自分の了見で判断しているだけ。

その了見は、自分の経験の範囲に制限される。
幼少時の影響を色濃く残している。
それぞれが、自分の色眼鏡で世の中を見ている。
カラフルな色の世界を、サングラスをはめて見ているようなもの。

色の世界は、分離の世界。
分離の世界は、限定の世界。
限定の世界は、制限された世界。
肉体も見識も、すべて制限されたものでしかない。

そういう限定された肉体という器のなかで、人は生きている。
肉体という器と共に成長することで、自分を肉体人間と思ってしまう。
狼に育てられた少女は、自分を狼と思っているのと同じ。
鳥でさえ、別の種類の鳥に育てられると、自分を育ててくれた鳥と思い込む。

人は、条件づけられている。
育った環境に強く影響されている。
人は、極めて制限された存在。
狭い狭い了見で生きる。

神々や天使たちに比べれば、ほとんど盲目で生きているようなもの。
この世限定の視野。
生まれる前も、死んだ後もわからない。
一分先のことさえわからない。

次の瞬間、大地震が起きても、まったくわからない。
動物たちは、避難できるが・・・
人は、ごく限られた範囲で生きているだけ。
何重もの制限の下で生きている存在。

この肉体や五感の範囲。
目に見えて、手で触れる範囲。
耳や鼻や舌の範囲。
小さな小さな領域が、人の生存範囲。

しかし、その限られた範囲を創造するのが、人の役割。
では、いかに創造するか。
何を創造するか。
どのように創造するか。

その雛型(ひながた)は、どこにあるのだろうか。
ビジョンは、どこからやって来るのだろうか。
それとも、手探りの試行錯誤だろうか。
さて、人は何を基準に現実創造をしているのだろうか。

人が現実創造している基準は、肉体。
この肉体を維持するのが、そのベース。
その根底にあるのは、自己保存の本能。
しかし・・・

それだけでは、動物と変わらない。
人と動物の違いは?
知能指数?
では、知能指数が低い人は?

知能指数が高い人は人間的で、知能指数が低い人は動物的?
しかし、知能指数が高い人も、悪事を働いて捕まることが多々ある。
悪事を働くことが、人と動物の違い?
まさか・・・

人と動物の違いは、役割の違い。
現実創造の役割分担の違い。
動物たちも子孫を創って現実創造に参加している。
他にも人には理解できない役割があるのかもしれない。

人は、より高度な創造ができるように見える。
いろんな材料から、いろんなものを創造している。
しかし、そのベースにあるのは、あくまで肉体。
肉体の保持が、基本。

しかし、それだけでもない。
芸術は、肉体の保持だけでは説明がつかない。
アートをする動物は、見かけない。
アートこそが、人の特徴?

肉体の保持は、必要条件。
しかし、それだけでは、動物と同じ。
人の特徴は、アートだろうか。
それでは、アートとは何?

子供の砂遊びと、どう違うのだろうか。
アートも、結局は遊びだろうか。
アートも、子供の砂遊びと同じだろうか。
多種多様のアートがあるが・・・

今日も砂浜では、子供たちが砂のお城を創っている。
波が来れば、それらは消えてしまう。
それでも飽きずに創っている。
そのビジョンは、どこからやって来るのだろうか・・・  (続く)


『創っては 波に呑まれる 砂遊び 飽きることなく 子供は遊ぶ』

『肉体の 器に入り 砂遊び 何を創るか いかに創るか』

『現実の ものを使った 砂遊び 人は創造 するが役割』


これが日記を書き始めて1961日目の心境。



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コメント

楽しみですね。

>そのビジョンは、どこからやって来るのだろうか・・・  (続く)

紙芝居の続きみたいで次の日記楽しみですね。
本当にビジョンは何処からやってくるのでしょう?

それにしても砂遊び、
波が壊していってくれるのがいいですね。
そのままずっと残っていくのなんてうんざりかも知れない。
ちょっと未練の残る出来栄えも含めて、
消えてくれるから次がある。

素晴らしいアートも、
作品が出来た時点で砂の楼閣。
固定された作品は物として残るけれど、
アーティストの心の中では波に洗われていく・・・。
だからこそ次の創作が始まる。

固定された作品は美しければ美しいほど、
素晴らしいものであればあるほど、
物としての不気味さを抱え込む。
アーティストに無縁の信じられない貨幣価値に転換されていく。

それは自然が創る美しさも同じ。
固定された美は、
人の欲の前では不気味なものになる・・・
黄金しかり、
ダイアモンドしかり、
玉しかり・・・

波に消える砂遊びのように、
朝陽や夕日、
ひと時を咲き誇る花々、
新緑、
清らかな水の流れ、
はるか見渡す大海原・・・・

いのちあふれる自然の息づく様のその一瞬に感動する。

けれどその自然すら人は固定化しようとする。
観光という名の物に変貌させようとする・・・

すべての美が、
波に融ける砂遊びのごとく、
子供のように楽しめたらいいですね。

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屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

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