記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2145日目 - 共依存


石蕗(つわぶき)の黄色い花が、咲き始めた。
芙蓉の花は、島全体に咲いている。
ススキの穂は、風に揺れている。
秋から冬へ、ゆっくりと季節が移っている。

手当てをする時に大切なことは、微妙な距離を取ること。
手を相手の肌に直接当ててもいい。
そういうやり方もある。
しかし・・・

手と肌の隙間が1cmほどある方が、エネルギーはより流れる。
エネルギーは、空間がある方が流れやすい。
べったりくっつけてしまうと、肉体的なエネルギーがメインとなる。
繊細な霊的なエネルギーは、流れにくくなる。

微妙な距離は、ヒーリングに限らない。
人間関係にも当てはまる。
男女間であれ家族間であれ、近過ぎると、いろいろ問題が起きる。
微妙な距離が、お互いの自立を担保する。

あまりにもくっつき過ぎると、依存と支配の関係が生まれる。
つまり、共依存。
そこに自由はない。
お互いに縛り合う関係があるだけ。

それは、人と人との関係に限らない。
近過ぎる関係は、執着を生み出す。
動物や植物に対しても、自分のものと思う囚われ。
物に対しても、自己所有にこだわる固執。

それらは、すべて苦しみの元となる。
相手が人でなくても、支配と依存という構図は同じ。
所有するが故に、執着が生まれる。
執着は、やがて苦しみへと変化する。

ただひとときの借り物。
物であれペットであれ、何であれ。
子供でさえ、所有することはできない。
やがて自立して自分から離れていく。

まして他人であれば、いつまでも自分に縛り付けておくことはできない。
自分に縛り付けようとするのは、所有欲。
所有欲とは、依存の別名に他ならない。
依存するが故に所有したがる。

その根底にあるのは、自己保存。
自分の安全を確保したいがために、より多くを所有しようとする。
その底流に流れるのは、快感。
快や安全を求め、人は行動する。

それは、肉体の本能。
そのこと自体は、悪い訳ではない。
ただ、それに思考が加わると、囚われとなり、執着となる。
人は、囚われたものに、逆に囚われる。

「過ぎたるは、及ばざるが如し。」
安全に執着することは、いたずらに不安を増幅する結果となる。
人に執着することは、自由を失うことを意味する。
依存することは、支配されることに等しい。

微妙な距離。
それが、自立を保証する。
人に振り回されることから自由となる。
執着の苦しみから逃れられる。

距離がないということは、自分がないということにも通じる。
少なくとも自立した自分はない。
そこにあるのは、依存と支配。
執着と苦しみ。

それもまた心地よい。
なぜ?
それは、子供時代のノスタルジー。
依存は、仮初(かりそめ)の安心をもたらす。

しかし、その安心は高くつく。
安心を得る代わりに、新たな心配を背負い込むことになる。
捨てられる不安と、支配される不自由。
安心のためには、心のやすらぎと自由の放棄が求められる。

精神的にも、肉体的にも、経済的にも、真に自立するのは難しい。
特に精神的自立は、至難の業。
大人はみんな自立していると思われている。
経済的自立が、精神的自立と誤解されている。

精神的に自立しいる人が、どれだけいるだろうか。
共依存しないで生きている人の数は、驚くほど少ない。
みんな何かに依存しながら生きている。
会社に依存し、家族に依存し、お金に依存する。

酒に依存する人もいる。
薬に依存する人もいる。
映画やテレビに依存する人もいる。
見栄や外聞に依存する人もいる。

何にも頼らず、独り生きている人のなんと少ないことだろう。
99%の人は、何かに依存しているに違いない。
それには、訳がある。
子供時代は、みんな親に依存していた。

最初から自立している子供などいない。
みんな親に依存し、支配されながら成長する。
そのために、いつまでも依存と支配のドグマから自由になれない。
子供時代の意識が、潜在意識となって表面意識に影響する。

一人で生きることの寂しさから、物やペットに執着する。
異性依存症になる人もいる。
新たな父親や母親を求めて結婚する人もいる。
ファザコンやマザコンは、潜在意識に根深く残っている。

それらをクリアーする必要がある。
それらを理解し、クリアーして、初めて自立が可能となる。
経済的に成功した人でも、共依存の人は少なくない。
それは、自分の精神構造を理解するまで消えることはない。

人に依存することは、仮初の安心。
依存すれば、自由を失くす。
支配され振り回されることが始まる。
真の心のやすらぎはない。

でも、一人では生きていけない?
誰かと一緒でないと・・・
そうであるなら、そのように生きればいい。
但し、そこから生まれるものを理解した上で。

依存は、支配を生み、自由を奪う。
執着は、苦しみを生み、心のやすらぎはない。
所有は、更なる所有を求め、不安が尽きることはない。
ひとときの安心の代償は、限りなく大きい。

そういうことをわかった上で生きることだろうか。
冷静に自分を見つめ、自分を理解して生きることだろうか。
いかように生きようと自由。
生きたいように生きればいい。

但し、ひとたび依存すれば、その自由は縛られる。
自由に生きることはできなくなる。
そのこともわかった上で共依存を楽しむことだろうか。
無自覚、無知であることが、最も苦しい。


『安心を 得ようと何かに 依存する それが新たな 不安生み出す』

『自立する 以外に真の 安心を 手にすることは 不可能なこと』


これが日記を書き始めて2145日目の心境。
関連記事

コメント

ほどほどの処はありや

ただ独り在ることと
共に生きることの
調和統合はありうるのでしょうか

共依存でもなく孤立でもない
関係性のありようは

自我まみれの小生なんぞには
ほどほどの共依存ぐらいは
ないとやっていられない…
という思いもあります。
しかしそれは幻滅につながる
幻想でしかないでしょうね。
その幻滅を引き受けることを
エゴの世界では成熟と言うのかもしれない。


幻想を煽り依存させるのは
大昔から政治でもビジネスでも
宗教や精神世界でも変わらない
エゴの世界の虚しいゲームなのでしょう。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

Twitter

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

カウンター

  
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。