記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2146日目 - 共依存の源


コメント欄に次のような書き込みがあった。

「ただ独り在ることと、共に生きることの調和統合はありうるのでしょうか。
共依存でもなく孤立でもない関係性のありようは?」

独り在ることと孤立とは、異なる。
孤立とは、個であること。
他と断絶された宇宙の孤児。
孤児であるが故に、寂しさから共依存に走る。

独り在ることは、孤児ではない。
孤独でもないし、寂しくもない。
それは、個であると同時に全体であることを意味する。
そもそも人は・・・

母体から離れる時、個となる。
子宮のなかにいる間は、身一つ。
母親との一体感のなかにある。
それが十月十日経つと、身二つとなる。

身二つになると、これまでのようにはいかない。
一緒にいてほしい時に、いつも母親がいてくれるとは限らない。
孤独を感じることになる。
母親から断絶された孤独。

それは、宇宙の構造に似ている。
「ひとつ」から多に分離していくプロセス。
「ひとつ」だけでは、ダイナミックな宇宙は成り立たない。
多くの個に分かれることによって、今のような変幻万化の宇宙ができあがる。

しかし・・・
過ぎたるは、及ばざるが如し。
個になりきってしまえば、バラバラの宇宙になってしまう。
宇宙としての統合性がなくなる。

人も、同じ。
個であることによって、自由に創造できる。
自分の望む人生を生きられる。
しかし、個が過ぎれば、孤独地獄が待っている。

個でありながらも、全体とつながっている必要がある。
そうでなければ、人は孤独に耐えられない。
全体とつながった個。
それでこそ、共に生きることが可能となる。

共に生きるとは、お互いに依存し合うことではない。
一緒にいること。
寄り掛かるのではなくて、寄り添うこと。
寄り掛かってしまえば、互いの重荷となる。

ポイントは、微妙な距離感。
べったりでは、窮屈で身動きできない。
そうかといって離れ過ぎては、共に生きることにはならない。
一緒にいるけれども、寄り掛からない間合い。

それが、寄り添うという生き方。
共に生きるということ。
それには、互いの自立が求められる。
寂しさからくる共依存ではなく、自立をベースにした共同歩調。

それには、個を脱却する必要がある。
個である限りは、何かに頼ろうとする。
個で生きるのは、母親から引き離された赤ちゃんのようなもの。
それでは、寂しさに泣き暮れるしかない。

この孤独地獄から抜け出す道は、ただ一つ。
個を超えること。
個であると共に全体であること。
それが、今の時代のメインテーマ。

大多数の人は、個として生きている。
共依存しながら、馴れ合いのなかで生きている。
惰性のなかで、半分諦めて生きている。
それが、真の人生だろうか。

人は、肉体として個であるのは間違いない。
しかし、それだけでは宇宙から孤立する。
断絶した孤独のなかで人生が終わる。
個を超えていく道は・・・

(明日に続く)


『寄り掛かる 人生だから お互いに 重荷となって 苦しみの道』

『寄り掛かる ことではなくて 寄り添えば 縛ることなく 共に生きれる』


これが日記を書き始めて2146日目の心境。

関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

Twitter

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

カウンター

  
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。