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2437日目 - 自我を超える道


台風が去った後の屋久島は、とてもスッキリしている。
昨夜は、半月の月が美しかった。
今朝は、青空に龍が舞っていた。
さわやかな風も吹いている。

朝から気分がいいので、隣のベランダにハンモックを吊す。
そのために買ってあったのだが、しばらくストックしていた。
今日は、なんとなく吊してみたい気分。
吊してみると・・・

これが、最高。
まるで宇宙遊泳しているみたい。
さわやかな風が吹き、なんとも心地よい。
これならもっと早くセットすればよかった。

今は、ベランダの主の女医さんがハンモックに揺られている。
隣には、猫のモーモー。
なんとも平和で、のんびりしている。
ほとんどリゾート気分。

屋久島は、あまりリゾートという雰囲気ではない。
別荘地でもない。
自然を楽しむところ。
自然と共に生きる島。

ハンモックを吊しただけで、リゾート気分に浸れる。
超のんびり&ゆったり。
なかなか良い。
彼女がいない時は、こちらのもの?

女医さんは、ほとんど自宅にいない。
当直や出張や学会や旅行・・・
彼女が昼間自宅にいるのは、数えるほど。
その間、こちらが管理している。

だから、いつでもハンモックを使える。
隣のベランダでのんびりできる。
土地も家もないが、なかなか贅沢。
景色もいいし、けっこう恵まれている。

自我について、次のようなメールが届いた。

--------------------------------------------------------

自我って、いままで歩んできた内面を、そのまま見せてくれるだけなんですね。
そこに意味づけや判断をしなければいいだけ・・・やっとここまで来れました。
いま内面から浮かんでくるものを拒まず、掴まず、取り込まず、ただ見守ることをし続けて・・・

--------------------------------------------------------

自我とは、過去。
これまで生きてきた自分自身の集大成。
ありとあらゆる記憶。
自分というイメージ。

記憶との自己同一化。
それが、自分であり自我。
自分を見守るとは、自分の過去を見ているようなもの。
幼い頃からの反応パターン。

体の反応、感情の反応、思いの反応・・・
ほとんどは、パターン化している。
それを客観的に理解することだろうか。
普通は、そのものになりきって生きている。

大多数の人は、反応のままに一生を終わる。
自分を見つめ直す人は、少ない。
自分の反応パターンを理解しようとする人は、ごく少数。
自分自身をわからないままに一生を終える人が、大多数。

しかし、それでは進歩がない。
過去世と同じことの繰り返し。
今生は、過去世を乗り超えるのが目的。
過去世の課題をクリアーし、新しいものを創造する。

そのためには、自分自身を理解することが必須。
自分自身の理解なしでは、パターンのままに一生が過ぎてしまう。
反応パターンに善し悪しはない。
ただの事実。

その反応から、少し距離を置き、見守り、理解する。
反応に対する評価も解釈もいらない。
正邪、善悪の判断もいらない。
ただ見守って理解すればいいだけ。

出てくるものは、そのままに。
けっして抑圧しない。
無理に押し殺せば、潜在意識に逆戻りするだけ。
それでは、いつまで経っても問題は解決しない。

抑圧はしないけれども、それに振り回されることもしない。
反応のままに振り回されては、見守る意味がない。
怒りの感情がこみ上げてきたら、それを爆発させない。
出てきた瞬間に気づき、それを客観的に捉える。

怒りそのものから距離を置く。
それが、怒りを抑圧せず、怒りに翻弄されないための唯一の方法。
怒りとの一体化を外す。
感情との一体化からの分離。

見守るとは、そういうこと。
感覚や感情や思いからの分離。
それらとの一体化から離れて、それらを見守る。
記憶からも離れれば・・・

自分は、消える。
自我は、なくなる。
少なくとも、その瞬間は。
見守りに自我はない。

記憶や反応からの遊離。
記憶や反応との自己同一化を外す。
純粋な意識で見守る。
純粋な意識とは、無色透明。

思考から離れた意識。
ただ気づくだけの意識。
ただ見守るだけの意識。
ただ感じるだけの意識。

自我ではなく生きるとは、自我からの分離。
自我をどうこうするという問題ではない。
自我をいくら修正しても、所詮、自我は自我。
自己中心的であり、自分本位。

それは肉体の本能と一体化しており、無理もない。
本能との一体化がなければ、肉体人間としては生きていけない。
しかし、一体化しすぎれば、本能のまま。
ほとんど動物人間になってしまう。

本能とも一体化し、動物人間にもならない。
それには、一体化しつつ、それを見守るしかない。
一体化している意識と、それを見守る意識。
その両方が必要。

人間は、動物以上の感情や思考力を持っている。
しかし、それらも肉体本能と一体化している。
動物人間の感情や思考になっている。
それらは、自己本位であり、自己中心的。

それは、肉体の本能と一体化しているから。
感覚だけでなく、感情も思考も肉体本能と一体化している。
その結果が、今の混乱した社会。
自我同士がお互いに争い合っている、動物と似たような世界。

自我とは、自己保存の本能と思考との一体化。
それが、自我としての自分というもの。
その一体化からの分離。
自己保存の本能を超えること・・・

肉体の本能も、感覚も、感情も、思考も大切。
だから、それらを否定する必要はない。
それらは、生きていくための大切な要素。
生きるための必要条件。

しかし、それらがすべてではない。
それでは、必要十分とは言えない。
今の混乱した状況を超えるには、他の要素が必要。

自我人間を理解すること。
自分自身を理解すること。
それには、自分自身を客観的に見つめる必要がある。
その見つめる行為自体が、自我との分離につながる。

自我を自我で見つめたのでは、自我の外には出れない。
自分を自分で何とかしようとするのが、自我が自我を見つめること。
それをやり出すと、自己矛盾が発生する。
努力や我慢や葛藤の世界となる。

それでは、欲求不満が蓄積されるだけ。
表面は変化したように見えても、潜在意識のなかは以前のまま。
抑圧された自我も、抑圧している自我も、そのまま継続している。
抑圧された自我の一部が、ほんの少し修正されただけ。

そういうことをいくら繰り返しても、本質的には何の変化もない。
いつか抑圧された自我が爆発するだけ。
爆発する力がなければ、やがて心身に異常をきたす。
健全な心身をキープすることは難しい。

見守ることだけが、唯一、自我からの離脱を可能にする道。
自我を超え、自我に振り回されない自由を得る道。
自己本位、自己中心から解放される道。
肉体本能を超える道。

これまで自覚されていないエネルギーを自覚することは、極めて難しい。
ついつい頭で考えてしまう。
それも必要。
しかし、思考を休ませるのも同じくらい必要。

考えながら自分を見つめる。
考えることなく、黙って自分を見つめる。
気づき、見守り・・・
手放し、解放・・・

気づきも見守りも、思考を超えたエネルギー。
これからの時代の意識。
そういう意識が、これからは意識の中心となる。
自我の次元を超えていく・・・


『超えようと もがくことなく ひたすらに 見守ることが 自我超えの道』

『見守りの 意識のなかに 自我超える 意識が潜む それがポイント』


これが日記を書き始めて2437日目の心境。


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光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

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