記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2618日目 - 光のガイド(三日目)


三泊四日の光の旅の三日目。
里の天気は、雨が降ったり止んだり。
しかし、天気予報では、だんだん回復するはず。
そのつもりで、巨木の森へ向かう。

行く途中は、山には雲がかかっていた。
しかし、だんだん雲が途切れ、天気は回復。
登山口に着いた時には、すっかり雨は上がっていた。
駐車場には、車が2台駐まっていた。

森のなかは、静かだった。
空気は、ひんやりとして澄んでいた。
小鳥の声がしていた。
大きな杉に次々と出会っていく。

巨木たちは、人の心を大きくしてくれる。
何千年の月日を生きている屋久杉たちは、スケールが大きい。
人間のちまちました日常意識を払拭してくれる。
心が伸びやかになる。

行く時には気づかなかった花を、帰り道ではたくさん発見した。
屋久島固有種の大五加葉黄蓮(オオゴカヨウオウレン)が群生していた。
海抜1400メートルなので、心なしか花が小さい。
雪のなかでも咲く可憐な花。

森のなかでは、対人恐怖やアダルトチルドレンのことは、あまり話さなかった。
ただ自然に触れ、自然を楽しんだ。
大きな自然。
人を包み込んでくれる大自然に浸った。

車中では、たくさん話をした。
この日記に書かれていることは、そのほんの一部。
この何十倍も話をしている。
それは、徐々に彼女の潜在意識に浸透している。

ヒラヒラと光が舞い落ちる。
潜在意識の闇のなかに光が舞い落ちる。
潜在意識の奥で眠っていたものが刺激される。
やがて、人の真実が目覚める。

彼女の問題は、何か。
それは、過度に周りに迎合したということだろうか。
周りに迎合しすぎて、自分を見失ってしまったということだろうか。
今の現状は、外主内従の結果ではないだろうか。

親の期待に応えようとしたのかもしれない。
良い子ブリッ子しすぎたのかもしれない。
周りを気にしすぎたのかもしれない。
自分がどう思われるかが心配だったのかもしれない。

いずれにしても、意識が外を向きすぎてしまった。
自分を外に合わせてしまった。
本来の自分を押し殺してしまった。
その結果、自分を見失ってしまった。

他人(ひと)に迎合しすぎた結果、他人(ひと)が怖くなった。
他人(ひと)の目を気にしすぎ。
周りによって自分が翻弄される。
というか・・・

過度に周りを意識するあまり、考えすぎて自滅するのかもしれない。
空回り。
自家中毒。
同じところをグルグル回っているだけ。

その現状を親のせいにする。
親のせいにして自己正当化する。
身を守るために自分を犠牲者にする。
それは、更に自分を惨めにする。

親にも問題がない訳ではない。
我が子は、可愛い。
可愛さ余って、子供を自分のものと思ってしまう。
自分の望み通りに育てようとする。

親は、言う。
すべて子供に良かれと思ってやったこと!
確かにそうかもしれない。
子供を思っての厳しいしつけだったかもしれない。

しかし、そのなかに自己投影がなかっただろうか。
自分が実現できなかった夢を子供に託していなかっただろうか。
自分にはできなかったことを子供にはやってほしかったかもしれない。
自分では気づかない支配や所有があったかもしれない。

はっきりしているのは、子供の本来性を引き出そうとはしてこなかったということ。
子供を自分の望む枠にはめようとしてきたということ。
自分の思う通りの子供にしようとしてきたということ。
子供の本性を尊重してきたとは言いがたい。

それは、社会のなかでより良く生きていけるようにという親心かもしれない。
しかし、それが過ぎると、子供の本質が歪められてしまう。
角を矯めて牛を殺す結果となる。
度が過ぎた社会適応は、子供の個性を殺す。

社会に適応することも必要。
しかし、それはメインではない。
自分を活かすことが、最も重要なこと。
それによって社会に貢献するのが、本来のあり方。

子供を社会の枠にはめようとする。
それが、今の社会。
それが、今の受験戦争であり、学校教育。
それは、明治時代から続く富国強兵策の延長。

産業界からの要請で、子供を企業の役に立つように育てる。
学校教育は、ほとんど職業訓練化している。
子供の個性を伸ばす教育とは言えない。
それは、外的生活を豊かにすることだけに意識が向きすぎた結果。

それが、今の人類の現状。
外的環境に意識が向きすぎ。
地球の物質的環境を理解することも必要。
しかし、それだけでは足りない。

外側の環境は、生きるための必要条件。
しかし、それはあくまで前提でしかない。
本質ではない。
本質は、内なるものを花開かせること。

内なるものを外に現実化すること。
人のなかに宿る真実を物質次元で実現すること。
自己実現。
人の真実の花を開かせる。

子育ても学校教育も、外面重視。
内面軽視。
社会適応ばかりに気を取られて、内面を花開かせることがお留守になっている。
それが、多くの精神的問題を生み出している。

彼女に車中で話したことは、親も未熟であると言うこと。
完璧な親はいないということ。
親も子育てを通して育っていく。
子育ては、親育てでもある。

親は未熟にもかかわらず、自分の価値観を子供に押しつけようとする。
自分の限られた経験から正しいと思うことを子供に強いる。
その結果、子供の本来性が育つのが疎外される。
真っ直ぐに伸びようとする芽が、歪められてしまう。

親も未熟。
しかし、それが親のせいにする理由とはならない。
なぜなら、どこの親も未熟だから。
すべての子供が対人恐怖やアダルトチルドレンになる訳ではない。

親は、あくまで縁。
因は、自分自身にある。
外に迎合しすぎたということ。
その結果、自分を見失ってしまったということ。

自分の真実を生きずに、外に流されてしまった。
そういう過去世がある。
それは、悔いが残る過去世。
だからこそ、今生は自分自身を生きたい!

にもかかわらず、また同じような人生を送っている。
周りに迎合し、自分をなくしている。
周りばかりを気にして、自分の真実を生きていない。
自分が信じられず、自分自身がわからない。

もう一度、ゼロからやり直す。
生き直し。
外ではなくて、内を見つめ直すしかない。
外ではなくて、内に依拠する生き方に切り替える。

一旦白紙に戻して、もう一度、自分自身を見つめながら生きる。
自分を感じ、自分を探りながら生きる。
外ではなくて、内に意識を向ける。
他人(ひと)にどう思われるかではなくて、自分がどう感じるかを大切にする。

180度生き方を変える。
方向転換。
外主内従から内主外従へ。
自分の主体性を確立する。

それは、新しい旅立ち。
自分探しの旅。
これまでの人生は、反応の人生。
ただ外側に反応してきただけ。

内なる真実を生きる。
内なるものを外に表す。
それが、人が生きるということ。
自己表現こそが、人生。

ただ生き残るのが、人生ではない。
人生は、サバイバルゲームではない。
生き残るのは、必要条件。
しかし、十分条件ではない。

生き残り、内側を花開かせてこそ、必要十分条件。
それでこそ生きている意味があるというもの。
自分自身を花開かせる。
それこそが生きるということ。

精神的に問題がある人は、根本が間違っている。
外主内従。
自分の本質を生きていない。
自分の真実を生きないで、外に迎合しているだけ。

にもかかわらず、社会的不適合。
ヘンな話ではある。
外側に迎合しすぎると、そのうちに内側を喪失し、その結果、外側にも適応できなくなる。
過ぎたるは及ばざるが如し!

内主外従。
内をメインにしない限り、内も外もなくしてしまう。
あくまで内がメイン。
外は、後から付いてくるもの。

大切なことは、まず内を育てること。
社会的適応は、内が育てばどうにでもなる。
内が育つ前に社会的適応だけを強調すれば、内が枯れてしまう。
親が良い子という枠にはめようとすることは、育つ芽を刈り取るようなもの。

いかに内なる芽を育てるか。
いかにその子の本質が出るように育てるか。
その本質こそが、神の精髄。
一人一人のなかに流れる宇宙の真実。

人類は、まだ未熟。
親も未熟。
子も未熟。
すべてが未熟。

外主内従から内主外従へ。
体主霊従から霊主体従へ。
物質化から精神化へ。
それこそが、アセンション。

流れが変わる。
方向が転換する。
物質化から霊化へ。
この世バージョンからスピリチュアルバージョンへ。

自分の真実を生きる。
自分自身を生きる。
それこそが、これからの最大のテーマ。
そのために・・・

彼女の38年間があった。
真実に生きるために。
本当の自分を生きるために。
目覚めるために・・・

苦しみは、目覚めるための揺り籠。
困難は、真実に至るための道標(みちしるべ)。
自分を見失うことは、真の自分を発見するための前提。
古いものは崩壊し、新しいものが立ち上がる。

彼女は、もう一度、ゼロからやり直す気になっている。
まだ人生の半分が残っている。
これからが、本番。
これまでは、準備体操。

これまでは、真実に生きるための前菜。
ちょっと苦い前菜だったが、その分、メインの料理が美味しくなる。
ネガティブ思考は、身を守るための単なる癖。
もうそのような鎧はいらない。

自分を守るための心の壁もいらない。
壁が厚すぎて、今のままでは窒息してしまう。
そのようなものは全部採り払って、ありのままの自分で生きる。
自分を信頼して、ありのままの自分自身を生きる。

もうウソの自分はいい。
いつまでも良い子ブリッ子してもしかたがない。
仮面舞踏会は、終わり。
これからは、素顔の自分で生きる。

彼女は、人類史そのもの。
外主内従の人類史の結果。
それは、物主精従と言ってもいい。
体主霊従とも言える。

いずれにしても物や肉体に重点を置きすぎ。
外側に意識が向きすぎ。
それを転換することが、アセンション。
方向が逆転する。

内なるものを育てる。
内なるものを花開かせる。
内なるものを外に表現する。
内にあるごとく外もあるべし。


『外側に 意識が向けば 内側が お留守となって 自分喪失』

『外側に 振り回されて 一生が 終わってしまう 気をつけないと』

『内にある ものを表す ことこそが 真の人生 生きるということ』

『生き残る だけでは人生 不十分 自分の花を 咲かせなければ』


これが日記を書き始めて2618日目の心境。




関連記事

コメント

わ~

すごいすごい。明確になってきましたね!

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

光のkimi

Author:光のkimi
屋久島で、光のガイドをしています。
光の水晶のネットショップも運営しています。
2005年から、光の時代の光の日記を書いています。

Twitter

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

カウンター

  
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。